応仁・文明の乱で大活躍した足軽大将・骨皮道賢とは、何者だったのか
現在の戦争はハイテク兵器が用いられるが、応仁・文明の乱では足軽の登場によって、大きく戦争が変わったという。足軽を束ねた骨皮道賢は有名だが、どんな人物だったのか考えることにしよう。
応仁・文明の乱で注目されたのは足軽だった。足軽には「足軽く駆け回る者」という意味があり、まさしく戦場を駆け回り、各所に放火したり、後方撹乱を行ったりした。加えて、乱取りという略奪行為も行っていた。
合戦には守護の正規軍だけではなく、ときに野伏らが動員された。足軽もそうした臨時に雇われた将兵なのである。その足軽を束ねていたのが足軽大将で、骨皮道賢もその1人として知られている。
道賢の出自や生年、生涯は不明である。名字が「骨皮」である理由は、①骨と皮ばかりの痩せた姿、②皮革業を営んでいた関係で名乗ったという2つの説があるが、どちらが正しいのか確定は難しい。
なお、念のために言うと、骨皮が名字であり、名が道賢である。道賢の表記は、史料によって「道源」、「道元」、「道見」とも記すが、当て字であろう。
道賢は東軍を率いた細川勝元、あるいは室町幕府の侍所所司代である多賀高忠(近江守護・京極氏の被官)に従っていた。道賢は侍所所司代の被官であり、目付という職にあったといわれている。
目付とは、京都市中の盗賊らの動静を探る職務であり、道賢は京都市中および南山城(京都府南部)に多くの者(盗賊や悪党)を従えていたという。
道賢は盗賊や悪党らと強い関係を結んでおり、彼らを足軽として従えていたのである。細川勝元は道賢のそうした人脈に目を付け、呉服や太刀を与えて東軍に引き入れたという。道賢が足軽大将に登用されたのは、人脈や軍事的な才覚が評価されたからだろう。
応仁2年(1468)3月、東軍の道賢は300余の軍勢を率いて、京都下京の焼き討ち作戦に出陣すると、稲荷山(京都市伏見区)に陣を取った。しかし、やがて戦いは、東軍の不利なまま展開した。道賢の軍勢も、西軍の攻撃を受けピンチになった。
戦況が不利になった道賢は、女装して板輿(いたごし:屋根と左右両側を白木板で張り、前または前後に簾を掛けた輿)に乗り、戦場から離脱しようとしたが、西軍の者に討たれて戦死したのである。
道賢の死は「昨日まで 稲荷廻し 道賢を 今日 骨皮と 成すぞかはゆき」と和歌で皮肉られたと言われている。