【光る君へ】なぜ藤原道長は関白にならず、内覧になったのだろうか
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が兄の道兼の後継者として、内覧を務めることになった場面が描かれていた。ところで、道長はなぜ関白になることなく、内覧を務めることになったのか、考えることにしよう。
長徳元年(995)、関白の藤原道隆・道兼兄弟が相次いで病没し、伊周(道隆の子)と道長(道隆の弟)が後継者の座をめぐって争った。
この時点において、伊周は内大臣、道長は権大納言で、地位は伊周のほうが上だったので、伊周のほうが後継者の有力候補だったのである。
当初、一条天皇は伊周を後継者として考えていたが、結果的に道長に内覧の宣旨を与えらた。その後、道長は右大臣に昇進したので、官職で伊周を上回り、以後の栄達の道を歩むことになったのである。
道長が内覧になったのは、詮子(道長の姉で、一条天皇の母)の猛烈なプッシュがあったからだという。詮子は、大変道長をかわいがっていたという。
ところで、道長は関白にならず、内覧に任じられた。摂政は成人前の天皇、関白は成人後の天皇を補佐する役職で、いずれの職務も宣下・奏聞の前に政務に関する文書にあらかじめ目を通すことである。実は、内覧の職務も同様で、摂政・関白が不在のときに任じられた。
道長が関白にならなかったのは、伊周への配慮があったという。伊周は関白になれなかったので、道長を深く恨んでおり、ときに互いの従者が闘争に及ぶことになった。
しかし、伊周は長徳2年(996)の長徳の変(花山法皇に矢を射た事件)で失脚し、道長は左大臣に昇進した。これにより道長は関白になってもいいはずだが、その後も20年近く内覧を務めた。
摂政・関白になると、たとえ大臣を兼任していても、太政官には関与することができなかった。また、摂政・関白は天皇の補佐役ではあったが、その関係性によっては、権限が左右されることもあった。つまり、摂政・関白になれば、必ず権勢が振るえるというわけにはいかなかったのである。
ところが、内覧は摂政・関白と同様の職務ながら、大臣として太政官に関与することができた。道長からすれば、関白にこだわらず同じ職務の内覧を選んだほうが、政務に携わることができるというメリットがあった。
つまり、名より実を取ったということになろう。ちなみに、道長は長和4年(1015)に准摂政の宣下を、翌年に摂政の宣下を下されたのである。