【光る君へ】一条天皇の激しい怒りに涙した母藤原詮子。ともに経験したつらい現実
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇が母藤原詮子に激しい怒りをぶちまける場面があった。とはいえ、2人にあったのはつらい現実だったので、その辺りを確認することにしよう。
一条天皇は人生の中で、常に母藤原詮子のいいなりだった。詮子は一条天皇に対して、自分も政治の道具で、父兼家の操り人形だったと涙する。一条天皇は、中宮の定子を愛することで、救いを求めていたのである。これがドラマのワンシーンだ。
詮子の父兼家は、熾烈な出世競争の中にいた。兼家が権勢を掌握するには、娘を天皇に入内させることが先決だった。そして、娘と天皇との間に後継者たる男子が誕生し、次の天皇になれば、兼家は摂政・関白として権力を掌中に収めることができたのである。
天元元年(978)8月、詮子は円融天皇に入内した。その2年後、詮子はのちの一条天皇となる男子を産んだ。こうして、兼家は一つの課題をクリアしたのであるが、まだ問題があった。それは、円融天皇の退位後、花山天皇が即位したからである。
即位後、花山天皇は女御の忯子が急死したので、出家しようと考えていた。兼家はこれをチャンスとばかりに、子の道兼らを使って花山天皇を出家させた。その結果、孫の一条天皇が即位し、ようやく摂政の座をつかんだのである。
それは、一条天皇も似たような環境にあった。兼家の死後、子の道隆が跡を継ぐと、その娘の定子を中宮として迎えた。一条天皇と定子は、深い愛情で結ばれていたという。しかし、道隆の死後、道兼が跡を継ぎ、その道兼が急死すると、弟の道長が跡を継いだ。
これにより、道長と伊周(道隆の子)の関係が悪化したが、伊周は長徳の変で失脚した。その際、定子が髪を切ったので出家とみなされ、一条天皇は苦境に追い込まれたのである。
その頃、道長は一条天皇に娘の彰子を入内させようと画策し、意を汲んだ藤原行成がこれを実現に導くべく、詮子の親書をもって意見を具申した。その結果、一条天皇は彰子を迎えることになったのである。
このような政治的な状況に置いて、一条天皇も詮子も自由に結婚する相手を選べなかった。一条天皇はつらかったかもしれないが、母の詮子もつらかったのである。