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”東洋の魔女”主将の涙

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

『東洋の魔女』と呼ばれた1964年東京五輪金メダルのバレーボール全日本女子チームの主将、中村昌枝=旧姓河西(かさい)=さんが、亡くなった。80歳だった。バレーボール会場で時々、コトバを交わした。後輩たちを見つめる目はいつもやさしく、コトバは愛情に満ちていた。

2020年東京五輪パラリンピックの招致活動にも参加していた。先の国際オリンピック委員会(IOC)総会で東京開催が決まり、さぞ喜んでいただろう。生前、「2020年オリンピックを目指して、私は元気でいられたらいいな、と思っています。死ぬまで努力です。これから私の努力は、8年後、元気でいられること」と話していた。

昨年の年の瀬、中村さんは東京五輪パラ招致を支援するフォーラムに参加した。64年東京五輪を思い出し、「日本中の声援が忘れられません。みなさんがほんと、ひとつになって、“がんばれよ”“勝ってほしい”と応援して下さった」と感慨深そうだった。

当時の国民の期待の大きさはいかばかりだったか。中村さんたちは“鬼の大松(博文監督)”の指導の下、猛練習に励み、1962年世界選手権(モスクワ)でソ連を破り、ついに世界一となった。当時29歳の中村さんは、「結婚でもしようかな」と引退を考えた。

だが、コートから離れることはできなかった。中村さんはそう言うと、たしか涙声で続けた。「家族も、歳をとった両親も、辞めて帰ってきなさいとは言えなかった。私は“がんばります”と言った時、“やるんだったら、一生懸命にやりなさい”と言って笑顔で送りだしてくれました」

半世紀前の両親の顔がまぶたに浮かんだのだろう。中村さんの父は東京五輪の直前に他界する。東京五輪は1964年10月10日に開幕し、バレーボールは10月23日にソ連との決勝戦を戦い、第3セットに苦しみながらもストレート勝ちした。

国民が期待した金メダルである。壮絶な時代だった。「自分が最高の力を持った時、東京でオリンピックが行われ、優勝できた。家族と日本中のみなさんへの感謝の気持ちを一生忘れることができません」。中村さんはそう、しみじみと漏らした。

7年後、東京に再び、オリンピックがやってくる。中村さんが天国に召されても、東洋の魔女たちのバレーボール魂は消えない。その思いは、きっと日本代表の後輩たちに引き継がれていくのである。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2024年パリ大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。酒と平和をこよなく愛する人道主義者。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『まっちゃん部長ワクワク日記』(論創社)ほか『荒ぶるタックルマンの青春ノート』『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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