女優業と育児の両立を望むのはわがまま?10代で抱いた「かわいい」で女性が判断される社会への違和感
<ぴあフィルムフェスティバル>や<神戸インディペンデント映画祭>など、国内映画祭で次々と入選を果たしているドキュメンタリー映画「アクト」。
これまで舞台を中心に俳優として活動してきた田中夢が初めて監督に臨んだ本作は、仕事と学業、そして育児の板挟み状態でどうにもならなくなってしまった彼女自身が記録されている。
子育てに、大学の講義に、舞台公演の迫る俳優としての仕事に追われる日々。
不測の事態が起こると対応せねばならず、すべてが順調に進まない。すると、どれも中途半端になっている気がしてやりきれない。そうした小さなストレスが積み重なり、たまりにたまって怒りが爆発する……。
その日常の記録は、「保育園落ちた日本死ね!!!」の投稿から6年以上を経ても、まったく解消されていない育児と仕事の両立が困難な日本社会の現実を映し出している。
仕事も育児も学業もすべて成立させようとする彼女に対して、「それは所詮無理な話」「そんなにしんどいなら仕事をやめたらいい」「欲張りすぎ」という意見が寄せられるかもしれない。
でも、考えてほしい。仕事と育児を両立させることって、そんなに望み過ぎのことなのだろうか?子どもが生まれたら仕事を辞めて育児に専念しなければいけない社会ってどうなのか?と。
ひとつの家庭の話から、日本の社会がみえ、発想の転換を提起するところがある本作について田中監督に訊く。(全六回)
10代から感じていた「女の子」扱いされることへの違和
前回(第一回はこちら)、育児と仕事を両立させることが難しい社会、とりわけ女性が出産して仕事へ復帰することの難しい社会であることに直面し、そのことが本作「アクト」の制作へとつながっていったことをあかした田中監督。
そもそもをたどると、すでに10代から社会に対して、ひとつ違和感を抱いていたという。
「女性として扱われることに違和を感じていたといいますか。
なかなか言葉で説明するのが難しいのですが、『女の子』という扱われ方をされることに違和感を抱いていました。
どういうことかと言うと、わたしは10代のときにオーストラリアに留学していたのですが、同国ではほぼ女性扱いされることがなかった。
オーストラリアでわたしは他の国からきた人間であって、学生でまだ子どものような扱いで、女性として性的な対象として見られることはなかった。
ところが日本に戻ってきて18歳ぐらいでしたけど、アルバイトをはじめたら、男性から『かわいいね』とか、『何か買ってあげようか』とか、『かわいいんだからもっとカワイイ恰好をすればいいのに』とか、なにかと気にかけられて声をかけられるようになったんです。
いままでまったくそういう体験をしたことがなかったので戸惑いました。『え? 何で、今まではそんなことがなかったのに、わたしのなにが変わったんだ?』と。
当時、いろいろなことがあって精神的に参ったこともあって、どんどん痩せていった時期でもあったんです。
すると痩せれば痩せるほど、心配もあったからかもしれないですけど、『今度、一緒にご飯行こうよ』と声をかけられる。
髪を伸ばせば伸ばすほど、なんかお誘いが増える。
一瞬、『モテキが来た?』と思って喜んだんです(苦笑)。それまでまったくモテたことがなかったので、ちょっと調子に乗ったところはありました(笑)。
でも、なにかが違う。ものすごい違和感があって気持ちが悪い。そして、次第に窮屈なものを感じはじめました」
10代の女性に求められる「かわいさ」
その人自身ではなく「かわいさ」で判断される社会ではないか?
その違和感の、窮屈なものの原因を考えたという。
「よく考えてみると、そうあることが求められるというか。
10代の女性なら、『かわいさ』が重要で、男性の目にかわいく映って、言うことをなんでもきいてくれるような女の子像でいることが求められる。
10代なら10代の女の子の理想像みたいなものがあって、時がくると、本人の意思とかまったく関係なく女性はそこに当てはめられる。
そこで『かわいい』か『かわいげがない』か判断されてしまう。
かわいいと『かわいい』と言われるけど、そのかわいさがちょっと欠けていると、『もっとかわいくしたら』とか言われてしまう。
そして、知らず知らずに女性側も感化されて『かわいくないといけない』と思い込まされるようなところがある。
しかも、その判断基準がビジュアル、容姿のイメージからによるものにかなり傾いている気がする。
つまり見た目で判断される。
10代のわたしに対する『かわいいね』の言葉には、そういう意味が含まれているんじゃないかなと。
わたしの勘繰りに過ぎないのかもしれない。でも、なんか10代の女の子は『こうあるべき』みたいなものが社会にあって、その人自身ではなくそこで判断される。
そこに自分は窮屈さを感じて、違和感を抱いたのではないかと思いました」
女優って男性の求めるものにならないといけないんだ、という現実
芝居をはじめたころも同じような違和感を抱いたことがあったという。
「お芝居をはじめてわりとまもないころ。
オーディションを受けはじめたぐらいのころだったんですけど、『女性の代名詞』のような女性らしい女性の役をいただくことが何度かありました。
特定の男性から見ての女性らしい女性、つまり『つつましくおしとやか』みたいなイメージの役です。
役者ですからいろいろなタイプの人間を演じることは当たり前で、自分という人間と正反対のような人物を演じなくてはいけないときがあるのはわかっている。
わかっているし、そういう役にだってチャレンジしてきちんと演じたい気持ちはあります。できないとはいいたくない。
ただ、どうしたって自分とその役がかけ離れていることはある。
当時のわたしは、『つつましくおしとやか』とはほど遠い性格でした。
ほとんど自然児で、裸足で公園をかけまわって地べたにすわって遊ぶような子ども時代のまま大人になったようなところがあった。
しおらしいようなところがほとんどない(笑)。
ただ、なんとなく見た目は大人しく見えた。
でも、ある時、演出家の方も気づいたと思うんです。『見た目のイメージと違うな』と。
で、ある時から、注意されるようになったんです。演じているときならまだわかるんですけど、普段のときに指導が入るようになった。
『もっとかわいい格好をして来なさい』とか、『人前でタバコを吸わないほうがいい』とか。
そういうことが何度か続いたとき、なんか男性の求める女性らしさを課せられていくような感覚があって。
『ああ、女優って男性の求めるものにならないといけないんだな』と思ったんです。女優とはそういうものだと教え込まれていくような感じを受けた。
女性とはかくあるべき、といったことを押し付けられるようにも感じました。考えすぎかもしれないんですけど……。
ただ、わたしはわたしでしかない。わたしなりの表現をしたいし、似合わなくてもかわいくみえなくても自分の着たい服を着たい。
そのいわば芝居に限らず、世間から女性として求められることと、自分という人間の間にあるギャップがまったく埋められなかった。
それがものすごく辛かった。
このような経験を、なにか表現したい、きちんと作品にまとめてみたい。
そういう気持ちもまた『アクト』につながっていっていると思います」
(※第三回に続く)