【幕末こぼれ話】高給取りであったといわれる新選組は、本当はどれくらいの給料をもらっていたのか?
幕末の京都で活躍した新選組は、その働きにふさわしい高額の給料をもらっていたといわれる。
たとえば局長の近藤勇は、月額で50両。現在の価値でいうと、500万円もの月給を取っていたとされている。年収に直せば、6000万円だ。
うらやましい限りの高収入だが、この金額は本当なのだろうか。今回は、新選組の給料の実際について調べてみたい。
隊士永倉新八による証言
上記の近藤勇の給料は、諸書に引用されることが多いものだが、どのような史料に基づいているのだろうか。実は新選組隊士だった永倉新八が大正2年に小樽新聞の記者に語った体験談『新撰組顛末記』が出典で、次のように記されている。
「隊長は大御番頭取とよばれ手当てが月に五十両、副長は大御番組頭でおなじく手当てが四十両、副長助勤は大御番組といって手当てが三十両、以下の同志もそれぞれ名称と手当てを付され、平組員でさえ大御番組並とよばれ月の手当て十両ずつ給されることとなった」
整理すると次のようである。
局長・近藤勇 50両(500万円)
副長・土方歳三 40両(400万円)
助勤・沖田総司ほか 30両(300万円)
平隊士 10両(100万円)
近藤や土方が高給取りなことは納得がいくが、平隊士でも100万円の月給を取っていたことに驚かされる。さすがは命をかけて京都の治安を守る新選組、危険手当の意味合いも込めて高額の給料が支給されていたということだろう。
ところが近年、新選組の給料について、信憑性の高い新史料が発見された。それによると、彼らに支給されていた金額がずいぶん違ってくるのである。
三井両替店に残された新史料
京都新町通りの三井両替店は新選組と付き合いのあった豪商だが、「新選組金談一件」と題された同店の記録には新選組の内部事情が記されていて、貴重な史料となっている。
そのなかにあったのが、新選組の給料に関する次の記載である。
「組頭以上は一ヶ月に御手当金一人シ両、余はセ両ずつの由」
「シ両」「セ両」というのはわかりにくいが、これは商人が数字を外部に隠すために使われる符牒(隠語)であり、「シ両」は10両、「セ両」は2両を意味している。つまり、組頭(副長助勤)の沖田総司らは月に10両、平隊士は月に2両が支給されていたことになる。
すると、前掲した永倉の証言と金額がだいぶ違ってきてしまうのだ。この場合、永倉が維新から40年以上たった大正時代に語っているのにくらべ、三井両替店のほうは幕末時にリアルタイムで記録されたものなので、どちらに信憑性があるのかはいうまでもない。
永倉は確かに隊の内情を知る当事者ではあるが、それゆえに金額をやや多めに新聞記者に語ってしまった、つまり「盛って」しまった部分とみなすべきだろう。
整理すると、このようになる。
助勤・沖田総司ほか 10両(100万円)
平隊士 2両(20万円)
局長の近藤勇と副長の土方歳三については三井の記録がないが、隊士たちの減額率から考えて、近藤が月に30両(300万円)、土方が20両(200万円)程度であった可能性が高い。
従来いわれてきた月給よりもずいぶん低い金額である――と本稿のまとめで記そうと思っていたが、こう見てみるとそれでも月給100万円以上の者が一定数おり、やはり新選組は高給取りには違いないとあらためて感じるのである。