プロ野球選手から医者に挑戦!寺田光輝(元横浜DeNAベイスターズ)が新たに進む道
■医師のDNA
「医者になろう」―。
自然に出てきた。これまで一度だけ医学の道を目指したことはあったが、その後は野球一筋に生きていこうと思っていたから、ついぞそんなことは考えもしなかった。
しかし、野球の道が終わったと思ったとき、この考えが頭をもたげたのは当然といえば当然なのかもしれない。
横浜DeNAベイスターズ・寺田光輝投手。
いや、今はもう“元”横浜DeNAベイスターズ・寺田光輝氏というべきか。
2017年、石川ミリオンスターズからドラフト6位で入団した。1年目にヘルニアの手術をし、2年目の今季は試行錯誤してきたフォームが固まってきた夏場から、ようやく調子が上がってきた。スタイルも確立できはじめていた。
しかしプロの世界は非情だ。10月に戦力外を通告された。たった2年で、だ。
「やっぱりか、と。(調子が上がるのが)遅かった。年齢とか立場とか考えたら妥当だと思う」。寺田氏本人は冷静に受け止めた。
ここまで打ち込んできた野球が終わりを告げる…そう思ったとき、ふと浮かんだのだ。「医者になろう」と。
実家の「寺田クリニック」で父は内科、胃腸科の医師をしている。父方の祖父と伯父は産婦人科医(寺田産婦人科)、父のいとこは外科医(寺田外科)で、弟も現在は研修医だ。
自身もかつて、一度だけ目指したことはあった。だからその考えが芽生えても不思議はないのだが、そうはいっても簡単な道ではない。
まず医学部に入学しなければならない。現在27歳。一から受験勉強を始めることはなかなか至難である。それでも挑戦することに決めた。
■トライアウトで3人と勝負
しかしその前に、トライアウトは受けることにした。どこかが獲ってくれたらという希望がないわけではなかったが、むしろ「自分の中でケジメをつけたい」という意味合いのほうが大きかった。
「最後にしっかり3人に投げたい」とマウンドに上がり、そのときできる精一杯のパフォーマンスを出した。「諦めはついた。ここまで体がボロボロになるまでできてよかった…」。
実は今季、ずっと腰に違和感を抱えたままでプレーしてきた。昨年のヘルニアの手術後は状態のよかった腰だが、1月の自主トレ中に一度「やばい」と感じ、その後も違和感の波は大きくなったり小さくなったりしながら、ずっと存在していた。
アンダースローに変えてからはより顕著になったが、それでもなんとかだましながら付き合ってきた。しかしトライアウトに向けてのトレーニング中、激しい痛みに襲われて練習ができなくなった。まったく動けない日もあった。
そういった体の状態もまた、きっぱりと次の道へ向かわせてくれたのかもしれない。
■医学部受験に向けて、勉強できる環境が整った
当初は働きながら勉強をし、医学部受験を考えた。そこでまず仕事先を探した。すると、さまざまなところから声がかかった。
ただ働くだけであれば、おそらく職には困らなかっただろう。しかし勉強時間をしっかり確保することを優先すると、その要件を満たす仕事場を見つけるのは難しかった。
そんなとき、ある人と出会った。ベイスターズのOBである松下一郎氏だ。同じくOBである渡邊雄貴氏がオープンした店「Forty Four」でたまたま遭遇したのだ。
ほんの短い時間の世間話だったが、現在の状況を話したときに「自分のやりたい道があるなら、最悪、働かなくても1年は打ち込んだらどうかな。貯金もあるでしょ」と松下氏に言われた。
目から鱗が落ちた。そうだ。そういう貯金の使い方もあるじゃないか。
そこで仕事探しを断念し、勉強に没頭することにした。すると幸いにも、地元・三重の塾の先生が熱心に声をかけてくれた。かつて中学3年の受験時に通っていた塾で、現在は中学1年の妹が通っている。
妹の保護者面談のときに親の代わりに行くと「協力したいから、うちに来いよ。いいように利用してくれていいから」と、塾でのアルバイトだけでなく受験勉強の手助けまで申し出てくれた。
「人に助けられてばかり」と、その温かさに頭が下がった。これでしっかり受験勉強ができる環境が整った。
■明確にプロ野球選手を目指そうと思った高校3年夏
医者の家の長男という家庭環境的に、最初から医師を志してもおかしくなかった。しかし寺田氏は野球がしたかった。野球が大好きだった。両親から「医師になれ」と言われたことも一度もなかった。
そもそも本気でプロ野球選手を目指そうと思ったのは、高校3年の夏が終わったときだった。
伊勢高校は指折りの進学校ではあるが野球の強豪校ではない。最後の夏の大会で寺田氏はエースナンバーを着けてマウンドに上がったが、菰野高校にコールド負けした。
「僕が自滅して、みんなの夏を終わらせてしまった…」。
悔しさ、歯がゆさ、申し訳なさ…さまざまな感情が入り混じり、ヘコんだ中で考えたのが「プロ野球選手になる」ということだった。それがチームメイトへ報いる最良の形だと真剣に考えた。
といってもプロのスカウトの目に留まっていたわけではなかったので、大学に進んでプロを目指そうと決心した。
野球で名を馳せている大学ではないが、「環境より自分がしっかり練習してやっていけばプロに行けると、当時は思っていた」と地元の三重大学に進学した。
ところが入ってから迷いが生じた。同級生にいい投手が2人いて、「こいつらに勝てないとプロには行けない」と思いはじめ、「プロになれなかったら…」というところに思いが及んだ。
「もしプロになれなかったとき、この学部(教育学部)で仕事に就けるのか」と考えたときに不安を覚え、そこで医学部を受け直そうと決めた。それが入学して3ヶ月、1年夏のことだった。
すぐに休学し、アルバイトをしながら勉強に打ち込んだ。そして三重大の医学部を受験したが、あえなく二次試験で不合格となった。
「自分でもよくやった」と思えるくらいに勉強しただけに、直後は何もやる気が起こらないくらいに燃え尽きてしまっていた。
ただ、その間もトレーニングはずっと続けていた。燃え尽きたあとに残っていたのが、野球への情熱だった。
「一番やりたいのは野球だと気づいた。一度離れたことで、やはり野球がやりたいと思った」。
■紆余曲折して野球に戻った
しかし、医学の道を断念して再び野球に戻ることは親には言い出しづらかった。そこで図書館で勉強をすると嘘をついてアルバイトに行き、トレーニングを続けた。
そんな折、高校時代の後輩とキャッチボールをしたときだった。
「先輩、なんすか、この球!めっちゃ速くなってますよ!」
当初は三重大に戻るつもりだったが、筑波大学の野球部に在籍するその後輩の誘いにより、筑波大の野球部からプロ野球を目指そうと決意した。「筑波なら就職率がいいから」という理由で親も説得した。
無事、筑波大に入学するも与えられたポジションは「太鼓」だった。代々の野球部員で受け継がれていくスタンドでの応援の太鼓だ。
小学3年から中学2年まで習っていたドラムが生きたのか「太鼓、めっちゃうまくね?」と先輩からその腕を見込まれたのだ。ただただ太鼓を叩く日々で、試合に出ることはできなかった。
2年の9月にはトミージョン手術も受け、「自分は故障して、周りのみんなはすごいし、どうあがいてもエリートに比べたらチャンスも少ないし…」と、野球が嫌いになりかけていた。手術で離脱することを「ラッキー」とさえ思った。
3年秋にようやくベンチには入ったが、登板機会はなかった。しかし4年になってやっとチャンスがもらえ、すべて中継ぎで公式戦の12試合に投げた。
「最初はいい場面で投げさせてもらえたけど、2試合打たれて秋は敗戦処理だった」と、1勝1敗という成績を振り返る。
一時はプロ野球を諦め、地元の銀行に就職しようとしたが、独立リーグで再びプロ野球を目指すことになり、やがてベイスターズに入団することができた。(詳細は⇒寺田光輝、横浜DeNAベイスターズにドラフト6位で入団)
■人に恵まれた濃密なプロ2年間
2年間という短いプロ野球人生ではあったが、濃密な2年間だった。
「野球を通しての出会いが嬉しかった。著名人だからとかじゃなく、本当に人として素晴らしい人にたくさん出会えて、こんなにも可愛がってもらえるのかっていうくらい可愛がってもらった」。
「手術したときにお見舞いに来てくれてビックリした」という川村丈夫投手コーチは、復帰後も個別練習までずっと残って付き合ってくれた。常に親身になって考え、声をかけ続けてくれた。
梶谷隆幸選手は食事に連れていってくれては、野球選手である前に人間性がいかにたいせつかを説いてくれた。
「『人として勘違いすんな。謙虚でい続けろ』というようなことをいろんな言葉で言ってくれた。ベロベロに酔っ払いながらも…だからこそ本音なんだけど。こんなに活躍している人が、って思った。見た目はプロレスラーだけど(笑)」。
かけてくれた熱い言葉の数々は一生の宝ものだ。
「加賀(繁)さんにも藤岡(好明)さんにも赤間(謙)さんにも飛雄馬さんにも…」。挙げだしたらキリがないくらい数多くの先輩たちによくしてもらい、ただただ感謝の思いでいっぱいである。
球団、チームに対しても、そうだ。「ちゃんと評価してくれる。何かは必ず評価してくれていた。いいところはいい、ダメなところはダメって。チームの雰囲気もいいし、変な上下関係もなくてやりやすかった。ベイスターズっていうチームが大好き」。
■後悔のない人生を歩んできた
これまで何ひとつ後悔をすることがない人生だった。自分でそういう道を選んでこられた。
「プロ野球生活でも練習内容でも、一球一球の選択でも、何も後悔がない。あのとき、ああしておけばよかったなということは、何もない。そうしてきた自分に『いい選択をしたな』と言ってあげたい」。
だから今回の選択もきっと、後々「いい選択をしたな」と自分に言ってあげられる自信がある。
今までマウンドで緊張したとき、「言い訳したほうが気持ちを落ち着かせられると思って」という理由で「野球がダメでも医学の道がある」と自分を落ち着かせる“ネタ”に使っていたというが、おそらく潜在意識の中にずっと「医学」はあったのだろう。
ネタではなくなった今、逃げる場所はもうない。医者に向かって邁進するほかない。
■「寺田投手」から「寺田先生」へ
「これまでケガで病院にお世話になることが多かったから、お医者さんにもいろいろいることがわかった。面と向かってしっかり話を聞いてくれる人もいれば、全然こっちの顔も見ずにカルテしか見ていない人も」。
自身の経験から、自ずと患者が求めている医者像が見えている。
「病院に来るということは、心なり体なり何かしら弱っているっていうこと。そういう人たちに寄り添って、ちょっとでも『来てよかったな』って元気になって笑顔になって帰ってもらえるような、そんな医者になりたい」。
グラブとボールを聴診器に持ち替えて―。
「寺田投手」から「寺田先生」になる日を楽しみに待ちたい。
(表記のない写真の撮影は筆者)
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