オリオンズからマリーンズへ。「ジプシーロッテ」フランチャイズ変遷の歴史と東京スタジアム
先月末に催された千葉ロッテマリーンズの経済界応援組織、「千葉ロッテマリーンズかもめ会」の集いにおいて、熊谷俊人千葉市長が、現在の本拠地・ZOZOマリンスタジアムに替わる新球場の建設に言及した。まだ具体的な案でもなく、「私案にもなっていない」段階らしいが、ZOZOマリンスタジアムの開場は平成に入って間もない1990年。アメリカでは30年もすれば、新球場が建設されることが多いことを考えると、近い将来、千葉に新たなボールパークが出現することも夢ではないだろう。
ロッテの原点・東京スタジアム
そんなことが頭に浮かんだのは、つい先日、かつてのロッテの本拠地球場の跡を目にしたからだ。ロッテの本拠地と言えば、熱心なパ・リーグファンには、オリオンズ時代の川崎球場がお馴染みだが、こちらは1992年にロッテが去ったあと大幅に改装され、現在はフットボールの競技場になっている。
私が訪ねたのは、その2代前、東京の下町、南千住にあった東京スタジアムの跡だった。現在警察署と草野球場を含んだスポーツセンターになっているその敷地の区画は、球場のあった当時のままで、町の区画に合わせた外野フェンスにはふくらみがなく、ホームランの出やすい球場だったことが今でも理解できる。このような、街区に合わせてつくられた球場は、鉄道や自動車の発達する前のアメリカの球場にもよく見られたもので、有名なところでは、ボストンのフェンウェイパークは、レフトフェンス前の距離の短さを補うため、高さ11メートルのフェンス、「グリーンモンスター」を備えている。しかし、東京スタジアムは、フェンウェイパークのようなクラシックな不整形ではなく、当時最新鋭のシンメトリックなフォルムをしていた。サンフランシスコのキャンドルスティックパークを模した、上層と下層スタンドの間にゴンドラ席を設けたその姿は、まだ高層建築物のなかった下町のナイトゲームではひときわ輝き、「光の球場」と称された。
ロッテ流浪の歴史
それにしても、ロッテという球団は、その複雑な球団史と相まって、多彩なフランチャイズの歴史をもっている。現在この球団の系譜は、1950年創設の毎日オリオンズに遡るとされるが、このチームは発足時、巨人などと後楽園球場をともに使用していた。しかし、当時の後楽園球場は、巨人、毎日の他、大映、東急、国鉄と実に5球団がホームにしており、1952年にフランチャイズ制が正式に導入されるも、すべてのチームのホームゲームをここでまかなえるはずもなく、毎日はこの年完成したのちの本拠地、川崎球場で40試合を消化している。
実は、この球団の系譜は、戦後間もない1946年創設のゴールドスターまで遡ることもできる。この球団は1948年に映画会社・大映に買収され、大映スターズになるのだが、先述のように、このチームもまた後楽園を本拠地にしていた。この大映の総帥が、「ラッパ」と呼ばれた永田雅一。大映スターズは1957年の開幕直前に経営難にあえいでいた高橋ユニオンズを吸収合併し、大映ユニオンズになったが、シーズンが終わると今度は、毎日オリオンズと合併して、大毎オリオンズとなる。ちなみに高橋ユニオンズも1954年からのたった3年間の短い球団史を川崎球場を本拠として送っている。
その後の球団経営の主役を永田が務めたことを考えれば、球団の源流は、このゴールドスター・大映を本流として求めた方がいいように思えるが、合併時、球団運営会社として存続したのが毎日側だったので、公式には現在のロッテの直接のルーツは毎日だとされている。実際には、オリオンズの片方の親会社、毎日新聞社は2回目のリーグ優勝を飾った1960年シーズンが終わると、事実上経営から撤退し、球団の経営権は完全に永田の手中に収まるのだが、ここで永田は、自前の球場を建設することを思いつき、1962年、私財を投げ打って東京スタジアムを完成させる。そして、オリンピックが行われた1964年にはチーム名を東京オリオンズと改称、この結果、毎日は資本を完全に撤退させることになり、映画産業の斜陽化と相まって、球団経営は悪化の一途を辿ることになった。
そして1969年、永田は飛ぶ鳥を落とす勢いの製菓会社・ロッテに資金協力を仰ぎ、チーム名もロッテ・オリオンズに改称、引き続き本拠地は東京スタジアムを使用し、1970年には巨人との「東京シリーズ」を実現させている。10年ぶりの優勝を自ら心血を注いだ本拠・東京スタジアムで決めた瞬間、永田はフィールドになだれ込んだファンに胴上げされたが、これが彼の最後の花道で、このシーズン終了をもってロッテが正式に球団を買収、東京スタジアムも永田の手を離れることになった。しかし、新球場運営会社も単独での経営は難しいと判断、ロッテに球場買収を働きかけるが、ロッテはこれを拒否、1972年シーズン限りで、東京スタジアムから去り、仙台宮城球場を暫定本拠とするジプシー生活を5シーズン送ったあと、大洋ホエールズが去った川崎球場に腰を据える。
大洋が去った時点ですでに老朽化していた川崎球場は、低迷するチームよりもむしろその「ボロさ」で知られることとなり、バブルを迎えると、その追い風を受けて再開発された千葉・幕張新都心に新造された千葉マリンスタジアムにロッテはフランチャイズを移し、現在の千葉ロッテマリーンズとして再出発した。
未来に向かいつつ、過去のよすがも大切に
ロッテ球団は、その歴史において、後楽園、東京、仙台宮城、川崎、そして千葉の実に5つの球場をホームとしてきた。このうち、川崎以外のすべての本拠でリーグ優勝チームとなっている。
後楽園もそうだが、東京スタジアムの跡地にはかつてそこにスタジアムが存在したことを示すものはない。東京スタジアムは、その後、主を失ってから5年ほど存在し、大学の準硬式リーグ戦などに使用されたという。
隣に新球場(と言ってもこれももう築30年を超えたが)・東京ドームのある後楽園はともかく、東京スタジアム跡地は、そのことを知らねば、そこに「光の球場」があったことに気付くのは難しい。スポーツセンターの建物内に、あいそ程度に古写真や新聞記事が他のスポーツ関連のグッズと一緒に飾られているだけである。
年号が変わろうかという今、昭和から平成のバブル時代に建てられた各地の球場もそろそろ寿命を迎えようとしている。千葉にも遠くない未来に新球場が建つことだろう。そうなれば、古い球場は取り壊されることになるのは当然であるが、そこに球場があったことを示す碑のひとつでも残すのが、球場の供養にもなろう。それこそが、野球という日本のスポーツ文化継承の手段にもなる。
東京スタジアムに「何か」を残すプロジェクトも有志により進行中らしい。是非とも実現してもらいたい。
(本文中の写真は筆者撮影)