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小田原征伐後、責任を追及され、腹を切った4人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 昨今の政治家の中には、不祥事を起こしても責任を取らず、そのまま居残るケースもあるようだ。天正18年(1590)の小田原征伐後、責任を追及され、腹を切った4人の武将がいたので、紹介することにしよう。

◎北条氏政

 天正16年(1588)以降、氏政は豊臣秀吉との関係がこじれると、弟の氏規を上洛させるなどした。その後、氏政は上洛して秀吉と面会する予定だったが、拒否したので秀吉との関係が悪化した。

 天正18年(1590)、名胡桃城事件が勃発し、両者の関係は最悪なものになった。

 結局、氏政は弁明のための上洛を引き延ばしたので、怒り心頭に発した秀吉は、ついに小田原征伐を敢行した。戦後、秀吉が氏政に責任を取らせるべく、切腹を命じたのは当然だったのかもしれない。

◎北条氏照

 氏照は氏政の弟で、八王子城に本拠を置いていた。氏照は秀吉との対決に際して主導的な役割を果たした(氏照は八王子城に不在で、城代の横地吉信が守備)。八王子城を攻撃したのは、上杉景勝、前田利家ら約15,000の軍勢である。

 両者は激しい攻防を繰り広げたが、八王子城は落城した。次いで小田原城の落城後、同城に籠城していた氏照は、兄の氏政とともに切腹を命じられた。介錯をしたのは、弟の氏規である。

◎松田憲秀

 松田氏は、北条氏の譜代の家臣だった。小田原征伐がはじまると、憲秀は秀吉への徹底抗戦を主張した。しかし、秀吉方の堀秀政から内応を打診されると、ただちに応じようとしたが、これは北条方に阻止された。

 小田原城の落城後、憲秀は秀吉から北条氏への忠誠心がなかったことを咎められ、切腹を命じられた。ただし、次男の直秀(のちの憲定)は死を免れ、のちに豊臣秀次や前田利長に仕えて生き長らえた。

◎大道寺政繁

 政繁は、北条氏康、氏政、氏直の3代に仕え、松井田城の城代を務めていた。小田原征伐がはじまると、利家らが率いる圧倒的な大軍に屈し、開城して降伏すると、そのまま豊臣方に加わった。

 その後、政繁は北条方の忍城、松山城、鉢形城、八王子城攻めに加わり、大いに軍功を挙げた。しかし、小田原城落城後、政繁は開戦の責任を問われ、秀吉から自害を命じられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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