【戦国こぼれ話】織田信長は無神論者だった?信長は比叡山を敵視して焼き討ちにしたのか?
■瑠璃堂(重要文化財)が公開される
天台宗総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)において、瑠璃堂(重要文化財)の初の特別開扉がはじまった。瑠璃堂は、元亀2年(1571)9月の織田信長による焼き討ちを免れた。誠に貴重な文化財である。
かつて、信長は無神論者とされ、比叡山延暦寺の焼き討ちも仏教弾圧の一環として考えられてきた。しかし、近年ではそうした見解に修正が迫られている。
信長は、なぜ比叡山を焼き討ちにしたのだろうか?
■比叡山の焼き討ちとは
元亀2年9月、信長は比叡山焼き討ちを決行した。信長の軍勢が坂本・堅田付近に放火を開始すると、一斉に比叡山に攻め込んだ。その様子は、『信長公記』に詳しく描かれている。
死者の数は、フロイスの書簡には約1500人、『信長公記』には数千人、『言継卿記』には3000~4000と数がバラバラである。いずれにしても、相当な数の人間が亡くなったのはたしかだ。坂本周辺に居住していた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって焼き殺された。
■比叡山焼き討ちの捉え方
これまで信長による比叡山焼き討ちは、どのように理解されてきたのか。天台宗の比叡山延暦寺は、中世をとおして宗教的な権威として畏怖され、ときの権力者は公家、武家を問わず、容易に手出しをできなかった。
しかし、信長はその中世的権威を否定すべく、焼き討ちを実行に移した。ゆえに、信長の革新性や無神論者であることを裏付けるような出来事であると、長らく評価されてきた。しかし、その実態はどうなのだろうか。
ところで、当時の人々は、どのように信長の焼き討ちを捉えていたのか。山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』には、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難している。
仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。言継は、信長の行為を批判的に捉えている。
■信長自身の考え方
一方で、信長自身はどう考えていたのか。当時の比叡山延暦寺の様子について、『信長公記』には次のように書かれている。
山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く。
この記事を見る限り、比叡山延暦寺の僧侶らはまったくその責を果たしておらず、放蕩三昧だったようだ。比叡山延暦寺の僧侶らが荒れ果てた生活を送っていたことは、『多聞院日記』(興福寺の塔頭多聞院英俊の日記)にも彼らが修学を怠っていた状況が記されている。
そのうえで比叡山延暦寺は、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同したというのだ。結論を言えば、こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。
■比叡山延暦寺への対処
前年の元亀元年、朝倉氏・浅井氏と戦っていた信長は、比叡山延暦寺に対して、次のように通告していた(『信長公記』)。
1.信長に味方をすれば、山門(比叡山)領を返還すること。
2.一方に加担せずに、中立を保つこと。
3.上記の1・2を聞き入れないなら、根本中堂を焼き払うこと。
結局、比叡山延暦寺の衆徒は回答することなく、朝倉氏、浅井氏に味方した。信長は自らの申し出が認められなかったので、比叡山焼き討ちを決意する。決して間違えてはいけないのは、信長が仏教を否定したのではないということだ。
根本的なことは、仏教者たる比叡山延暦寺の僧侶が仏教者たる本分を忘れ、修学に励まないこと、放蕩生活を送っていたことに加え、信長に敵対する勢力に加担したからである。
■信長による宗教の否定はない
信長による比叡山焼き討ちは、仏教の否定、比叡山の宗教的権威の否定と捉えられ、信長の革新性や無神論者であることを裏付ける行動とされてきた。しかし、実際に信長には、そうした意図がなかったと今では指摘されているのだ。
未だに信長が宗教を否定していたという説が流布しているが、それは誤りだといえる。