南太平洋の委任統治 北西太平洋の台風観測は94年前に始まった
大正8年(1919年)のパリ講和会議では、第一次世界大戦戦勝国の日本は、ドイツの植民地であった赤道以北の南洋諸島を委任統治することになり、そのほかの戦後処理とともに、5月7日にドイツに提示されます。
ドイツはこの決定を受け入れることを拒否しますが、結局は受諾し、6月28日にベルサイユ条約が締結されています。
南洋諸島の気象観測
南洋諸島の気象観測は、植民地としていたドイツが、明治25年(1892年)にヤルート島に簡易気象観測が始めたことが最初です。その後、サイパン島などにでも簡易気象観測をはじめますが、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が始まり、日本が参戦して南洋諸島を占領することで、ドイツの簡易気象観測は終わります。
その後、日本海軍南洋守備隊がサイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、クサイ、ヤルートの各島で気象観測を行い、大正4年8月25日からはサイパン、ヤップ、パラオの気象電報が中央気象台に入るようになって研究等に使われます。
日本の具体的な委任統治は、大正11年4月1日の南洋庁官制公布(勅令第107号)から始まります。
第1条 南洋諸島に南洋庁を置く。
(略)
第24条 気象に関する事務を掌らしむるため南洋庁に観測所を置く。その名称および位置は長官これを定む。観測所長は技手をもってこれにあつ。長官の指揮監督をうけ庶務を掌理す。
こうして、南洋諸島の気象観測は、南洋守備隊からパラオ諸島コロール島に置かれた南洋庁観測所が中心となって行うことになります。
南洋庁観測所は、大正12年2月1日より日本中央標準時を用い、2、6、10、12、14、18、22時の1日7回の気象観測を行い、大正14年1月からは上層気流観測を、同年6月からは潮汐と海水表面温度と比重の観測をするなど、観測項目を増やしています。
そして、南洋諸島の島々に臨時観測所や出張所、分室を設けています。
南洋諸島周辺の観測は、ドイツにとっては、本国と遠く離れている場所での観測ですが、日本にとっては、直接大きな影響を与える台風の発生場所での観測です。力の入れようが最初から違っていました。
つまり、北西太平洋の台風観測に取り組みはじめたのは、大正12年、今から94年前ということができます。
南洋庁観測所から南洋庁気象台へ
南洋庁観測所は、昭和13年(1938年)7月12日に南洋庁気象台へ昇格します。
日米の緊張感が高まり、南洋諸島の重要性がましてきたためですが、この昇格によって、南洋諸島の気象事業は一段と強化されます。
日々作成する天気図も、日本付近から北西太平洋へと範囲が拡がりましたので、台風の発生数は見かけ上増えています。
日本付近の台風を数えていた昭和14年は11個の発生ですが、北西太平洋の台風を数えていた昭和15年には49個の発生と、前年の4倍以上にもなっています(図)。
ただ、このときの台風の定義は、現在のように、最大風速が毎秒17.2メートル以上というものではなく、毎秒10メートル程度でも台風としていましたので、数そのものは意味がありませんが、急増した理由は解析している天気図の範囲拡大です。
なお、図で昭和18年以降台風の発生数が減っているのは、連合軍の猛攻によって南洋諸島での観測ができなくなり、台風があっても分からない場合が増えてきたからです。
貴重な資料にスポットライトを
地球温暖化が問題になっていますが、この研究のためには、昔の熱帯の観測データは貴重です。
しかし、南洋庁が行った南洋諸島の観測資料は、印刷物やマイクロフィルムとして気象庁に残されていますが、その存在自体を知る人はほとんどいません。
このように、眠っているな過去の貴重な資料は他にもあると思います。
貴重な資料を発掘し、その資料を計算処理が容易にできる形(電子媒体化)に変換し、簡単に使えるようにするという、地道な作業が求められています。