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こんなに開かれた王室があった 「ヴェルサイユの訪問者」展

鈴木春恵パリ在住ジャーナリスト
展覧会資料の表紙(掲載写真はすべて筆者撮影)

開かれた王室といえば、ロイヤルファッションで日々メディアを彩ってくれる英国王室などを思い浮かべるが、歴史を紐解けば、実はもっと上手がいた。

年間700万人あまりが訪れるヴェルサイユ宮殿。王が寝起きした壮麗なベッド、マリー=アントワネットの白粉の香りがしてきそうな王妃の部屋など、訪れた人はしばし想像をたくましくしたくなる。現在では過去の歴史遺産として愛でられるヴェルサイユだが、じつは王たちが生きていた時代はもっとダイナミックに多くの人を惹きつけていたらしい。

「Visiteurs de Versailles-Voyageurs, princes, ambassadeurs-(ヴェルサイユの訪問者たち -旅人、プリンス、大使- ) 1682-1789」と題した展覧会からは、そんな“生きた”観光地としてのヴェルサイユの姿が浮かび上がってくる。

時は17世紀、それまで王の狩猟のための小さなお休み処だったヴェルサイユの館が変貌を遂げる。20年の工事の末、1682年に完成した宮殿は、太陽王ルイ14世の隆盛を象徴するヨーロッパ一壮麗な王宮となった。王族、側近らが暮らし、国政中心としての機能を果たしていただけでなく、宮殿の扉は一般の人にも広く開かれていて、政治とは全く関係のない市井の人々であっても、この地所に出入りすることが可能だった。

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庭園を散歩する王族たちを間近に眺め、運が良ければ、宮殿内での王の食事に立ち会うことだってできたらしい。つまり、宮殿の豪華さばかりでなく、王族の優雅な暮らしぶりまでもがいわば高尚な見世物になっていて、物見高い人々が貴賤の別なくヴェルサイユを目指した。

当時パリからヴェルサイユまでは陸路で2時間ほど。4人、8人、16人乗りと、快適さ具合によって運賃の別がある乗り合い馬車のほか、セーヌ河を船で下った後、馬車を使う交通手段もあり、こちらの方がさらに料金はお得だったとか。ちなみに、王がいる時期と不在の時期ではこの料金は変わる。つまり「見もの」がそれほどでもない時期は安くなるという市場経済も働いていたらしい。展覧会の最初の方で革装丁の本が登場するが、これは今でいう旅行ガイド。地図などのほか、年間のめぼしい行事のことなども指南されているらしい。宮殿ができる前、ヴェルサイユに宿屋は1軒だけだったのが、建設中からその数は増え続け、パリっ子だけでなく、国内外からも訪れる人々を受け入れる城下町の賑わいが形成されていった。

かつての「ガイドブック」
かつての「ガイドブック」
宮殿のスイス衛兵の儀礼服
宮殿のスイス衛兵の儀礼服

ところで、貴賤の別なく、とは言っても、宮殿に入るからにはそれなりの服装が求められた。というより、王様のより近くにと願うならば、良い身なりをしている方が得だった。例えば、食事シーンの一般公開というのが週に3回行われたそうで、テーブルの一角に選ばれた見学者を座らせたりもしたそうで、この場面に立ち会えるのは身なりの良い者に限られていたとか。宮廷では貴族たちが最新モードで競い合っただろうことは想像に難くないが、そうでない身分の人々、もしくはそこまでおしゃれな服の用意がない外国人でも困らない方法があった。展示品のシルクサテンの生地がそれ。あらかじめ生地に刺繍が施してあって、これを客の寸法に裁断して縫い合わせれば、あっという間にそれらしい出で立ちが完成するというシステムをパリの仕立屋が編み出していた。

セミオーダー用サテン服地。1780-1785年頃のもの
セミオーダー用サテン服地。1780-1785年頃のもの
ロイヤルファミリーの食事の様子が描かれた扇子。1760-1775年頃
ロイヤルファミリーの食事の様子が描かれた扇子。1760-1775年頃

病人もまたヴェルサイユの訪問者だった。「結核性頸部リンパ腺炎の患者に触れるルイ14世」という絵は、王が庶民の病気を治す力を持つと信じられていたことを示している。まるで巡礼さながらに王のもとに集い、救いを求める病める人々。ルイ14世が手をかざした人の数は20万人にもなるという。

救いを求める病人に触れるルイ14世。1690年頃
救いを求める病人に触れるルイ14世。1690年頃

「作家、アーティスト、そしてスパイも」という現ヴェルサイユ宮殿のプレジデントの言葉通り、往時のヴェルサイユは今の連日の賑わいにも負けないくらい国際的な吸引力があった。幼い日のモーツァルトも父に連れられてこの宮殿で演奏をしているし、一級の美術彫刻を間近で見られるこの場所からインスピレーションを得た芸術家は少なくない。

ピアノを弾くモーツァルト。1777年
ピアノを弾くモーツァルト。1777年
庭園の植え替え工事中の様子を描いた絵画。1777年
庭園の植え替え工事中の様子を描いた絵画。1777年
子供達と遊ぶマリー=アントワネットよりも彫刻に興味津々の訪問者の姿が
子供達と遊ぶマリー=アントワネットよりも彫刻に興味津々の訪問者の姿が

そしてもちろん、外交の表舞台だったことは言うまでもない。各国の王族の来訪、大使たちの謁見には大勢の見物人が訪れたようだが、展覧会ではとくにシャム(タイ)大使の来訪(1686年)を描いた異国情緒ある絵画などが、豪勢な手土産ともども注目を集める。

ここでふと想像が湧く。

(もしや日本人が紛れ込んでいはしないか…)

残念ながら、この時期日本は鎖国中だったことに思い当たって、そんな想像の芽はあえなく摘み取られるのだが、人の往来はない代わり、日本の工芸品がヴェルサイユに渡り、愛でられていた。シャムの大砲と一緒に展示されている蒔絵の厨子がそれ。ルイ15世に贈られた品で、王家のコレクションとして大切にされ、現在ではルーヴル美術館に収まっている。

1715年、中東からの使者を迎えるルイ14世。
1715年、中東からの使者を迎えるルイ14世。
シャムの大使と通訳の宗教者を描いた絵画。1771年頃
シャムの大使と通訳の宗教者を描いた絵画。1771年頃
シャムの王から贈られた大砲。鉄に銀の細工が施されている。17世紀後期の作
シャムの王から贈られた大砲。鉄に銀の細工が施されている。17世紀後期の作
ルイ15世に贈られた日本の蒔絵の厨子。17世紀後期の作。
ルイ15世に贈られた日本の蒔絵の厨子。17世紀後期の作。
象牙や鼈甲細工の武器類も王への贈り物
象牙や鼈甲細工の武器類も王への贈り物
トルコ製の火薬袋。90のダイヤ、15のルビー、31のエメラルド、と台帳に記載
トルコ製の火薬袋。90のダイヤ、15のルビー、31のエメラルド、と台帳に記載
王からオランダ大使への贈答品。65の銀のメダルと王と王妃の肖像画入りのタバコ入れ
王からオランダ大使への贈答品。65の銀のメダルと王と王妃の肖像画入りのタバコ入れ
王立窯セーヴル焼の壺は、スウェーデン王への贈答品。1782年の作
王立窯セーヴル焼の壺は、スウェーデン王への贈答品。1782年の作

アメリカ独立戦争もヴェルサイユと無縁ではない。ベンジャミン・フランクリンは2度(1767年、76年)ヴェルサイユを訪れていて、2度目は独立宣言を起草した半年後に当たる。対英同盟を調印した78年には全権大使としてここで会見も行っているが、居合わせた婦人の手記には、ヴェルサイユという場に相応しくないフランクリンの出で立ちについての描写がある。

「アメリカの農民の服装、白粉けのないペッタリとした髪、丸い帽子、茶色いシーツの上着」

ベンジャミン・フランクリンの肖像画。1778年
ベンジャミン・フランクリンの肖像画。1778年
アメリカ代表団の若き陸軍中佐に贈られたルイ16世の肖像画入りのタバコ入れ
アメリカ代表団の若き陸軍中佐に贈られたルイ16世の肖像画入りのタバコ入れ

故意にヴェルサイユ風を拒否したフランクリンの選択は、当時の人々にショッキングに映ったわけだが、それはまたフランスの次の時代を予見させるものになった。

展覧会のエピローグは「望まれざる訪問者」。

1789年10月、革命の群衆たちがパリからヴェルサイユに押し寄せる。これによって王と王妃は命からがら宮殿を追われ、二度と戻ることはなかった。

展覧会は10月22日から2018年2月25日まで

2018年春には、ニューヨークのメトロポリタンミュージアムでも開催予定

1789年10月6日、王たちがパリへ逃れた日のヴェルサイユを描いた銅版画
1789年10月6日、王たちがパリへ逃れた日のヴェルサイユを描いた銅版画
パリ在住ジャーナリスト

出版社できもの雑誌の編集にたずさわったのち、1998年渡仏。パリを基点に、フランスをはじめヨーロッパの風土、文化、暮らしをテーマに取材し、雑誌、インターネットメディアのほか、Youtubeチャンネル ( Paris Promenade)でも紹介している。

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