「なにが女将でございますだ!」と怒るお客-おもてなしのプロ・温泉女将が語る「人は人でしか磨かれない」
新型コロナウイルスの蔓延で打撃を受け、閉館した「水月ホテル鴎外荘」。
東京・上野の不忍池からほど近い、約80年の歴史をもつ旅館で、敷地内には客室数100室強の宿泊棟が建ち、森鴎外の旧邸も丸ごと保存されていた。
鴎外が『舞姫』を執筆した部屋「舞姫の間」をはじめ、明治の古き良き時代の香りを残す宿として、リピーターも多かった。
※この記事は2020年に刊行された『女将は見た 温泉旅館の表と裏』(文春文庫)から抜粋し、一部改稿しています。
◆忘れられない「温泉のボイラーが故障した日」のこと
――閉館を前にして、いま心に思い浮かぶ光景などはございますか?
女将 やっぱり、お客様とのことですね。特に覚えているのは……うちの温泉は源泉が19度と低いので加温が必要なんですけど、ボイラーの故障でお湯の温度が上がらなかった日があるんです。5年くらい前のことかな。もちろん、気づいたらすぐに対処するんですが、私はそのことをわかっていなくて。それで、お食事を召し上がっているお客様のお部屋に「女将でございます。今日はありがとうございます」とご挨拶に行ったら、「なにが女将でございますだ! あんなぬるいお湯を提供しておいて!」と、もうカンカンに怒っていらっしゃって。「森鴎外という名前を使うな」と仰って、お帰りになってしまったんです。
うちがいけないことですから、そのお怒りはごもっともです。でも、その直後に、今度は女性お二人のお客様に、ご挨拶に行ったんです。その方たちはお食事の時間に遅れていらっしゃって、私の顔を見るなり、「こんなに遅くなってしまってすみません」と仰るんです。私はそれを聞いて、車が渋滞でもしたのかな、などと呑気に思って、「いいえ」と答えたんです。するとお客様が、「お風呂がぬるくて、出られなかったのよ」と。
それを聞いて、一気に謝りモードになりまして、「すみません」と頭を下げたら、「いいのいいの」って。「あんないいお湯に、こんなにゆっくり入れたのはぬるかったからよ。なかで二人でお喋りもしたのよ」とにっこりされて。それを聞いて、私、泣きそうになってしまったんです。
――何かトラブルが起きたとしても、お客様の受け止め方はさまざまということですね。
女将 お客様によって女将は成長するのだと実感してきました。
「人は人でしか磨かれない」
――改めて22年間の女将としての日々を振り返って、何を思われますか?
女将 そうですね……。実は、最初は女将という仕事は私にはできないなと思っていたんです。できることならば、すぐやめるつもりでしたから(笑)。
――え、意外です。“女将”が天職のようにお見受けしますが?
女将 いえいえ。私はお酒も飲めませんし。こういうと失礼ですけど、度胸のいる仕事だと思っていましたし、私には向いてないなぁと。でも気づいたら、私も経験値を積んだんでしょうかね、今では「女将適任ですね」なんて言われるんです(笑)。それも全部、お客様に鍛えていただいたおかげなので、感謝しかないです。
――「お客様に鍛えられる」とは?
女将 私、アルバイトの面接でいつも言うんです。「ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨かれないように、人は人でしか磨かれない」って。こんなにもお客様が、私たちを磨いてくれる職業はないのよ、と。この仕事は、過分な評価もたくさんいただきますけど、辛いことも言われます。それでも、どんな場にいても、自分の立ち位置とか、自分がここで何をしなければいけないかとか、そういう世の中が見えてくる、人が見えてくるという点では、この仕事は最適だと思います。