【温泉ごはん】「ボヨン」と海に飛び込んでいきそう――。海を眺めながら”ダンシング鮑”をいただく
アワビが“ダンシング”する郷土料理
おいしい旅館「是空」 (千葉県・房総鴨川温泉)
大学生の時にイギリスに短期留学した。ほんの3週間だったが、世界中から集まる学生と寮生活を送った。
なかでも明るく陽気なイタリア人とは気が合った。その後もエアメール交換が続き、数年後、イタリア人の友人が日本を訪ねてくれた。独り暮らしをしていた私のマンションでふるまったのはお好み焼き。一緒に焼いて楽しもうと思ったのだ。
焼きあがったお好み焼きにかつおぶしを振りかけると、鉄板の熱気にあおられて、かつおぶしがひらひらと動いた。日本人ならおなじみの光景だが、イタリア人の友人は初めて見たのだろう、とても興味深そうに見つめ、身体を揺らしながら「ダンシング」と言って踊り始めた。これを〝踊る〟と表現するのは、陽気なイタリア人ならではで、ラテン気質の私は直ぐにうちとけたんだなと思ったのを記憶している。
あれから20年以上の時を経て、食べ物が踊る姿を「房総鴨川温泉 是空」で見た。「是空」は千葉県太ふ とみはま海浜の断崖に建ち、客室、露天風呂、食事処、どこからでも海を眺められる。
食べ物が踊る料理は、その名も「アワビの踊り焼き」。場所は目の前に海が広がる食事処のテーブルの上。ひとり用の鉄板にのった巨大アワビがいた。
仲居さんが「火を付けていいですか」と聞いてきて、「はい」と答える。「蓋をしておきますね」と仲居さんが言ったが、私はなかの様子が気になって仕方がない。開けてはいけない扉を開ける心持ちで、そおっと覗いた。
アワビがうごめいていた。ゴム毬が跳ねるかのようだ。ぼよんぼよんと飛び跳ねて、そのまま海に飛び込んでしまいそうな激しい動きだった。きっとこの様子をイタリア人の友人が見れば、「ダンシング」と言うに違いない、そして踊り出すだろう。
アワビは苦しんでいるのかもしれない。熱いのかもしれない。そう思うと見ていられなくなり、私は蓋を閉じた。
しばらくしてから仲居さんがやってきて「そろそろ、どうぞ」と私に言いながら、もう静かになったアワビを皿にのせてくれた。ナイフで切れ目を入れると、その弾力に驚く。口に入れると、潮風のような塩味がした。やわらかい。噛めば噛むほど味が出る。
食事の〆のご飯に出てきたのが「まご茶づけ」。千葉の郷土料理だ。
鰹出汁と一緒に、地魚のなめろうと鴨川産米がお盆にのってきた。なめろうは、あじ、まぐろ、かつおの刺身をたたいてしょうが醤油に漬け込んだもの。茶づけというから、ご飯にのせて出汁をかけるのだと容易に想像はつくが、なめろうを一口、これだけでいただく。新鮮なのだろう、噛むと弾力があり、味が染みたなめろうがおいしくて止まらなくなり、半分ほど食べてしまった。残りの半分を白米にのせ、大葉と細かく刻んだ海苔を入れて出汁をかける。もともと漁師料理らしいが、素早く、美味しく、土地の風を感じられる。これこそが郷土料理というものだ。
目の前の海が、食材が眠る巨大な倉庫に見えた。おいしい倉庫を前にして、私はことのほか幸せだ。
「是空」には、宿泊棟の横に3つの貸し切り風呂専用の棟がある。
貸し切り風呂の湯に浸かると、ざわ~っという潮の音と風の音が聞こえてくる。入浴したのは夕食前の夕暮れ時。刻々と空が暮れてゆく。その空の変化を、潮風を受けながら眺めていた。
しょっぱい温泉は身体を温めてくれた。
もしここにイタリア人の友人がいて、この温泉に浸かったら、なんと表現するだろう。
海外は温泉といってもプールに湯が注がれているのが一般的で、水着をつけて入る。ぬるい湯で泳いだり、遊んだりで、日本人のように湯にじっくり浸かることに重きを置かない。まして海を目の前にした露天風呂なんてありゃしない。イタリア人なら、やはり裸のまま踊り出すだろうか。
あの頃は温泉の道を歩んでいなかった。今なら外国人の友人を選りすぐりの温泉に連れていける。
※この記事は2023年4月6日に発売された自著『温泉ごはん 旅はおいしい!』(河出文庫)から抜粋し転載しています。