【幕末こぼれ話】沖田総司の命日に思う――新選組の天才剣士はどこで死んだのか?
5月30日は、慶応4年(1868)の同日に没した新選組・沖田総司の命日である。
労咳(肺結核)を病み、志なかばで逝った沖田だが、実は長い間、没した場所がどこなのかが判明していなかった。
江戸であるのは間違いないが、浅草の今戸八幡境内というのと、千駄ヶ谷の植木屋平五郎方の2つに説が分かれ、どちらとも確定できていなかったのだ。
いまも高い人気を誇る天才剣士沖田総司は、いったいどこで27年の生涯を閉じたのだろうか――。
永倉新八による今戸八幡説
沖田総司の没した場所は、昭和6年に著された子母沢寛の『新選組物語』に、「千駄ヶ谷の植木屋平五郎方の納屋で死んだ」と記されて以来、そのように広く認識されてきた。同書の記述が、「沖田を介抱していた老婆から聞いた実話である」とされているのも、信頼度を増すことになった。
しかし、沖田の同僚である新選組隊士・永倉新八は、この千駄ヶ谷説には一切ふれず、「同志連名記」のなかでこう書き残しているのだ。
「沖田総司 江戸浅草今戸八幡 松本順先生宿にて病死」
松本順(良順)は旧幕府御典医で、新選組と交流の深い人物。今戸八幡の境内に当時仮住まいしていたが、江戸帰還後の沖田をそこにかくまい世話をしていた。そのまま沖田は、療養のかいもなく息を引き取ったというのである。
新選組でともに命懸けで戦った永倉の証言であるから、いいかげんなことはいわないだろう。当然信頼度は高く、逆に、子母沢寛という作家の筆が入った千駄ヶ谷説よりも、信じられるのではないかと人々は思うようになった。
その結果、昭和50年代には今戸神社(八幡)の境内に「沖田総司終焉之地」という立派な石碑が建てられた。沖田の最期の地は、もはや今戸で決定的と誰もが思ったのである。
千駄ヶ谷説の新史料の発見
ところが、平成7年になって、状況を逆転する新史料が発表された。新選組研究家の清水隆氏が、近藤勇の門人・吉野泰三の御子孫宅で、近藤の養嗣子・近藤勇五郎から聞いた話として吉野が記録した文書を発見したのである。そこには、このように記されていた。
「沖田総次は近藤勇の門人。奥州白川阿部侯の臣。明治元年辰年(五月)三十日、東京千駄ヶ谷において病死」(読み下し)
文書が記されたのは明治22年のこと。子母沢寛の著作よりずっと以前に、沖田が千駄ヶ谷で没したことが関係者によって記録されていたのだ。
であれば、子母沢寛が『新選組物語』に書いた千駄ヶ谷説に疑いを抱く必要はなく、植木屋の平五郎方で没したというのも、真実に近いものとみて差し支えないだろう。
慶応4年(改元されて明治元年・1868)5月30日、新選組一番隊組頭の沖田総司は、肺結核のために江戸千駄ヶ谷の植木屋平五郎方で27歳の生涯を閉じた――。長いあいだ決め手のなかった死亡場所の問題に、平成7年という最近になってようやく決着がついたのだった。
沖田の命日にあたり、私はあらためて現地の千駄ヶ谷に足を運んでみた。現住所表記は「東京都新宿区内藤町1」。そこには、今戸神社に建てられた石碑のように立派ではないが、平成26年に新宿区が設置してくれた「伝 沖田総司逝去の地」という小さな案内板が、アジサイに埋もれるようにひっそりとたたずんでいた――。