小牧・長久手の戦いで討たれた池田恒興の首の価値は、いかほどあったのだろうか?
今や成果主義の時代。いかに会社に貢献した社員であっても、貢献の度合いは数値化される。戦国時代では敵の首を取ることが軍功の指標になったが、小牧・長久手の戦いで討たれた池田恒興の首の価値はいかほどだったのだろうか?
天正12年(1584)、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)は徳川家康と織田信雄の連合軍と雌雄を決した。小牧・長久手の戦いである。その際、池田恒興は秀吉方に与して出陣したが、無念にも討ち取られたのである。
恒興を討ち取ったのは、永井直勝である。直勝は松平信康(家康の子)に仕えていたが、信康の自刃後は隠棲生活を送り、のちに家康に仕えた武将である。恒興を討ったことは大手柄だった。
文禄3年(1594)、輝政(恒興の子)が督姫(家康の娘)と結婚した際、輝政は父を討った直勝との面会を望んだという。そこで、直勝は呼ばれて、輝政と面会をすることになった。
挨拶をした輝政は直勝に「父を討った軍功により、どのくらいの知行を与えられたのでしょうか?」と尋ねた。すると、直勝は「1000石を拝領しました」と答えたのである。
答えを聞いた輝政は途端に不機嫌な表情になり、「父の首には、たったそれだけの価値しかないのですか」と不満を申し述べたのである。輝政の言葉を聞いた徳川家では、ただちに直勝に加増すべく、知行を与えたという。
この逸話は、『改正太平秘記』に書かれたものである。合戦後、直勝が1000石を与えられたのは事実であるが、その翌年には2000石を加増され、計3000石になったことが判明する。
天正18年(1590)に小田原合戦が勃発すると、直勝も出陣して大いに軍功を挙げた。その結果、直勝は相模国、上総国に5000石を与えられ、計7000石の知行を得ていたことがわかる。
先述した逸話によると、直勝の話を聞いた輝政が不満を漏らしたところ、徳川家が加増したように書かれているが、実際に直勝がその時点で知行していたのは7000石である。
しかも、文禄3年(1594)に直勝が加増された形跡はない。つまり、輝政の逸話は首の価値が高ければ、多く知行を与えられるというシステムを反映したもので、自分の父の首に高い価値を求めた創作にすぎないだろう。