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サッカー界にVARは必要か?サンフレッチェは誤審被害。Jリーグで相次ぐ「不可解な判定」

小宮良之スポーツライター・小説家
(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

Jリーグ、”VARで誤審”

 今年2月、”誤審“が大きなニュースになっている。

 Jリーグ開幕、サンフレッチェ広島対コンサドーレ札幌戦で、後半にCKから広島の選手のシュートを札幌のGKが止めたが、ボールがゴールインしていたことが確認された。当該試合の審判団が吊し上げられている状況で、審判委員長が急遽、謝罪会見を開き、釈明する事態になった。「映像を停めて確認するよりも、繰り返し見るべきだった」という”改善点”が挙げられたが、スコアは変わらない。

「VAR(ビデオアシスタントレフェリー)で確認したのに!」

 不満が出るのは当然だろう。

 しかしそもそも、VARは正当性を担保できるのか?

テクノロジーを使って公平に

 VAR導入以来、誤った判断を糺す機会は少なくない。動画で確認することによって、明らかになる部分はある。VAR擁護派は、そこで”錦の御旗”を掲げた。

「これからはテクノロジーを使って公平に!」

 彼らはそう言って、時代の流れ、を強調してきた。

 しかし、VARはあらゆる正当性を担保するものではない。未来永劫、どれだけ技術が進歩してもあり得ないだろう。なぜなら、VARを運用し、決定を下すのは人間だからだ。そこにはしっかりと主観が入る。つまり、永遠に公平はない。

 サッカーは元来、白黒をつけられない、グレーの部分があるスポーツである。明らかなファウルというのはあるが、ファウルとも言えるが、ファウルではないとも言える、というグレーが存在している。たとえ優秀な審判であっても、100%一致することはない。それはビデオで何回繰り返し見たとしても同じだ。

 不条理さも含め、成り立ってきたのがサッカーなのである。

機械が入るからこそ、より許せなくなる

 VARを入れようが、入れまいが、不条理に巻き込まれる。

 今シーズン、チャンピオンズリーグ(CL)、グループリーグ第3節でFCバルセロナ(バルサ)はアウエーでインテル・ミラノと対戦したが、その試合で不可解なVAR判定に振り回されていた。バルサは、自分たちの故意ではないハンドがPKの判定され、インテルのあからさまなハンドはPKとならなかった。問題をややこしくしたのは、VARに入った人物が過去の試合でも不利な判定を下し、バルサと揉め、「怨恨で取り扱わなかった」という憶測が流れたからだ。

「主審はVARで何を確認した!?復讐なのか!?」

 バルサ関係者の怒りには憎しみすら滲む。これは危険な流れだ。

「審判に文句を言うべきではない」

 VAR以前はそれが原則だった。あまりにひどい判定は議論されるべきだが、審判のジャッジがリスペクトされることで初めて、この競技は成立していた。しかしビデオを使ってジャッジした場合、「映像を審査しながら、何を見ているんだ!」という不平不満が収まらない。しかも時間を長々と懸け、ろくでもない判定だったら…。

 今やVARそのものが火種になっている。

VARを最小限にしたジャッジ

 欧州チャンピオンズリーグ(CL)、ラウンド16のファーストレグでレアル・マドリードが敵地アンフィールドでリバプールに2-5と大勝しているが、どちらもゴールに迫ってスペクタクルなゲームだった。

 何より、フェアなゲームだったと言える。ファウルはどちらも一けた台。オンプレータイムが長く、余計に止まることがなかった。イエローカードも2枚。どちらのチームも強いプレスから攻守の切り替えは速く強く、局面では激しかったが、コントロールされていた。

 特筆すべきは、主審の笛さばきだった。ルーマニア人のイシュトヴァーン・コヴァーチは、プレーに対するコンタクトに関してはできるだけ流していた。選手から不満が出なかったのは、一つの基準が確立されていたからだ。

 何より、VAR運用が最小限だった。もしVARチェックを入れていたら、微妙なシーンはあったはずだ。例えばナチョがドリブルで攻め上がったシーンは後ろから手で押され、倒れている。何度もビデオで確認したら、ファウル判定でPKだったかもしれない。しかし、「サッカーではあり得るコンタクト」とし、逆にナチョが相手とゴール前で交錯し、後者を倒した時も笛を吹かなかった。

 皮肉にも、VARの存在をほとんど感じさせなかったことが、好ゲームに結びついていた。

 オフサイドの判定でも際どいシーンはあった。しかし、コヴァーチ主審は止めていない。時間をかける審判もいるだろうが、彼は潔かった。VARがあろうとも、主審が決断の権限を持っているのだ。

 そもそも、オフサイドは「頭、胴体、または足の一部がオフサイドラインよりも出ていたら」成立する。したがって、「並んでいたらオンサイド」が原則だった。目視では数ミリなど判断できず、「並んでいたら」というあいまいさが重要な意味を持っていた。サッカーはゴールを奪い合うところに醍醐味があるスポーツで、できるだけゴールを増やすため、グレーな部分があったのだ。

 その歴史に、VARが土足で踏み込んできたのである。

VARがエンタメを複雑にしている

 例えばJリーグ開幕戦、サガン鳥栖が湘南ベルマーレと戦って1-5で敗れたゲームは、ジャッジが天秤を動かしたところも多かった。

 単刀直入に言って、主審が生真面目にVARに頼り、試合のリズムの悪さを生んでいた。そもそも、日本人はVARのチェックにいちいち時間をかけ過ぎる。真面目で慎重な国民性のせいか。サッカーというスポーツのスピード感を損なっている。動画を止めても判断に迷うシーンを何度となく見て、結局は主観的な判断になるわけで、どこまで正当なジャッジと言えるのか。

 前半13分、鳥栖がFKの跳ね返りを押し込んだシーンは、ゴールライン上にいた選手がプレーに関与したと判断され、オフサイドの判定でゴールを取り消された。しかし高速でプレーが動く中、わざわざスローモーションにして、「関与する動きがあった」とするのはフェアか。当該選手はGKと接触していないし、パスを受ける動きもしていない(シューターはただボールを蹴り込んだ)。

 大差だっただけに、「この1点が入っても、入らなくても、大勢に影響はない」という意見もあるだろう。しかし、これが入っていたら同点になっていただけに、戦況は確実に変わっていた。一つのターニングポイントになったはずだ。

 同じ2節、鹿島アントラーズ対川崎フロンターレの試合では終了間際、シュートをブロックした荒木遼太郎が決定機阻止で一発退場の上、PKという判断を下されている。しかし、同シーンは肩でクリアしたようにも見え、角度によっては腕にも当たっているように見えた。どこまでいってもグレーだった。結局は映像を何度も見た主審の主観だ。

 誤審ではない。しかしグレーの部分を、ビデオを見返し、人が判断する。余計なプロセスを経た主観は、結局もやっとしたものを残す。

 エンタメを複雑化しているに過ぎない。

公平に、はお題目

 最大の被害者は審判だろう。結局、ジャッジが本人に託されているようで託されていない。機械の介入があり、そこで判断は遅れ、決定には怖さが出る。その連鎖はジャッジそのものを劣化させかねない。彼らの存在意義の問題になるだろう。

 冒頭の誤審は最たるものだ。

 VARが関与するプレーは限られている。そうなると、VARチェック以外のジャッジは、現場の審判に託される。しかし、最も肝心なプレーを動画確認に委ねているのに、一つひとつのジャッジの質が高くなることはない。事実、各会場で不信感が募るようなジャッジが増えている。

 ほとんど明らかなオフサイドまでディレイさせるようになった副審も、存在価値が危うくなりつつある。

 第2節、湘南対横浜FCという試合では、開始早々に小川航基が先制点を決めたが、一度は副審にオフサイドで取り消され、VARで覆った。多くの人が首をかしげるような判定で、VARの効用とも言える。しかし、「VARのおかげ」というよりも、明らかなオンサイドをオフサイドと判定するのは副審の質の悪化で、このままだとVARに振り回されかねない。

 何より選手もファンも、サッカーの疾走感を奪われつつある。

「せっかくのゴールを祝うシーンの喜びを半減させる」

 そう感じている選手は少なくない。VAR介入で、記録したゴールもすべていったんお預けになる。改めて与えられるにしても、せっかく自分たちが全力でもぎ取ったものが「審査のプロセスを経る」のは、スピード感、連続性が高いスポーツの原則に背を向けた格好だ。

 それでも完全な正義が成立するなら、やむなしだった。しかし危惧されていた通り、現実はむしろ騒動が目立っている。

「これからはテクノロジーを使って公平に」

 現時点では、お題目に過ぎない。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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