若者に投票を呼びかける一方で、社会運動への参加は叩く日本の風潮
学校や会社、家庭などで政治の話をすると怪訝な顔をされるのに、一方で、投票には行こうという。
義務教育で本格的な政治教育をせずに、校則見直しや学校運営などについて子どもの意見を尊重しないのに、18歳になった途端、投票に行こうという。
日本では、そんな不思議な光景、矛盾した態度が見られる。
そして、よくある光景の一つが、若者に投票を呼びかける一方で、若者が社会運動に参加すると叩かれるというものだ。(必ずしも同じ人物かは不明だが、社会全体の傾向として)
現在イギリスで開かれている気候変動に関する国際会議「COP26」に関連して、世界中で多くの若者が抗議デモを行なっている。
日本も例外ではなく、東京など、様々な都市でスピーチなどが行われた。
Yahoo!ニュースのコメント欄や、SNS上では、様々な批判コメントが飛び交い、今後のキャリアにも影響するんじゃないかという指摘もされている。
なぜ「煽動」という言葉が出てくるのかは謎だが、バックに「大人」がいるわけではなく、若者たちは自ら主体的に声を上げている。
もちろん、スピーチの全ての主張が正しいとも思わないし、若者の総意だとも思わない。衆院選の出口調査を見ても、気候変動対策はむしろ高齢世代の方が重視している傾向が見られる。
が、それでも声を上げること自体に対して、若者を叩く風潮、それをもって就職活動で不利になる現状には違和感しか感じない。
実際は、気候変動対策についてよく勉強をしているし、むしろ勉強しているからこそ、危機感を感じて、声を上げているわけだが、勝手に「無知」だと決めつけて、そんなことをしても無駄だと叩く。
こうした、投票は求めるのに、社会運動は叩く、この風潮はどこから来ているのだろうか。
海外では若者が社会運動に参加することを推奨
それを考えるために、まずは、海外でどうなっているのかを考えたい。
結論的には、海外では、若者が社会運動に参加することは、投票と同様に、推奨(当然視)されている。
それは、問題解決の手段として、子ども・若者の意見表明権確保の手段として、「投票行動」や「陳情」、「メディアへのリリース」と同列で、「社会運動(デモ)」が語られているからである。
実際、主権者教育の中で、「投票行動」「陳情」「メディアへのリリース」「社会運動(デモ)」のやり方を教わり、小学生がデモに参加することも珍しくない。
そうした結果、若者の10%以上は、日常的にデモなどに参加しており、そんな特別視もされていない。
もちろん、デモに参加することが、就職活動に大きな影響を与えることもない(過激な活動は別だろうが)。
一方、日本は投票率も低いが、他の政治参加の手段においても、低水準にある。
上図一番右のスウェーデンは、投票率も高いように、投票率と他の政治参加手段への参加は、基本的には相関関係にある。
選挙は数年に一回しかないが、デモや陳情などは、いつでも行うことができ、時に投票以上に、効果的である。
であれば、むしろわざわざ投票行動だけに絞る理由も見つからない。
大人が決めたレールに乗らないと気が済まない大人たち
では、なぜ日本では、若者の社会運動への参加は推奨されていないのか。
それは、「社会運動」自体への理解不足が日本社会全体にあるのと同時に(後述するように運動を行なっている側にもある)、投票活動が、若者の意見表明権として重視されているのではなく、あくまで有権者であれば投票に行くべき、という規範的な行為として、重視されているからではないか。
その根底にあるのは、あくまで若者は、大人が用意した選択肢に従うべきである、というパターナリスティックな思考なのではないか。
大人が決めたルールに従うことを強要する一方で、大人が用意していない手段を取ろうとすると批判される。
わかりやすく言えば、大人が決めたレールに乗っていればよくて、余計なことはするな、空気を乱すな、ということである。
結局、大人たちの方に「正しさ」が埋め込まれており、そこから外れる場合は、「正しくない」と叩かれる。
これは、子どもの「主体性」を求める一方で、校則など、学校のルール自体を変えようとすると無視される風潮と、構造的には同じである。
関連記事:「学校のことに関して意見を表明する場がない」校則見直しに生徒が関わる機会を求める児童生徒の声(室橋祐貴)
こうした型にはまった行動、過去の踏襲しかできなかったからこそ、世界の変化に対応できず、ここ30年程度の日本社会の停滞がある、と言っても過言ではないだろう。
そして、本当の意味で、子どもや若者の意見表明権を重視するのであれば(日本は1994年に子どもの権利条約を批准しており重視する義務が大人にはあるのだが...)、投票行動と同様に、他の政治参加の手段も尊重すべきである。
日本のデモ行為自体にも改善の余地は大きい
ただ、シノドス国際社会動向研究所が実施した「生活と意識に関する調査」(2019年)によると、若年層ほどデモに否定的な意見が見られるように、日本のデモにも問題はあると考えている。
それは、「反対」という抗議部分が強く、問題解決の手段としての機能が弱い面である。
実際、上記の調査によると、若年層ほどデモを「迷惑」「社会的に偏っている」「過激である」と見ている。
上記で紹介した、ノルウェーの小学生の事例がまさにそうであるが、海外のデモ活動は、デモと同時に、政策決定者(政府関係者や与党関係者)に対する要求、対話(ロビイング)も行なっており、あくまで世論喚起、問題解決の手段としてデモを戦略的に行なっている。
たとえば、気候変動対策分野においても、2018年にフランスで起きた黄色いベスト運動では、デモの後に参加者が政策決定者と対話を重ね、その結果として、大統領直轄の「気候市民会議」が結成され、その後市民の提言を受けて、政府の取り組みが進められている。
関連記事:なぜいま欧州各国で「気候市民会議」が開かれているのか?ー日本では気候若者会議の取り組みも(室橋祐貴)
しかし日本では、デモと並行して、政策決定者(政府関係者や与党関係者)と対話する機会が極めて乏しい。(若い世代では徐々に意識が変わってきているが)
これは、政策決定者側の姿勢の問題もあるが、デモをしている側にも、問題があるように思える。
政権与党との対決色が強く、与党議員と対話しようものなら、むしろ身内から叩かれる。
そうした場面は珍しくない。
ただこれでは成果を出すことも難しく、デモが問題解決の手段として有効だと社会的に認識されることも難しい。(現状は、「対決色」が強いからこそ高齢世代の方がデモを肯定的に見ている)
今回の衆院選においても、50代以下が、対決色の強い野党(立憲民主党、日本共産党)ではなく、是々非々で政府と向き合う野党(日本維新の会、国民民主党)に票を投じた(議席を伸ばした)ように、社会全体として、問題解決のプレイヤー、手段を求めるようになってきており、日本のデモ自体も変わる必要はある。
それでも、もっとも重要なのは、声を上げる主体を尊重することであり、ルールをおかしいという人がいなければ、社会も変わっていかない。
もちろん、声の中身を問う声も必要であるが、声を上げる行為自体にリスペクトがなければ、どんどん声を上げる人は減っていくだろう。(同様に、対話をする上では現在政策を進めている意思決定者側へのリスペクトも重要だが)
今後、日本社会が変化に対応していくためには、むしろ現状を疑い、「おかしい」と言える人が増える必要があるのでないか。
であれば、社会運動への参加を叩く日本の風潮も変わっていかなければならない。