大谷吉継は眼病を治すため、本当に千人斬りを行ったのか?真相を探る。
医療が進歩した現代であっても、残念ながら手術や薬では治らない難病がある。大谷吉継は眼病を治すため、千人斬りを行ったといわれているが、それは事実なのか検討することにしよう。
大谷吉継は前半生や出自に謎が多いが、豊臣秀吉に仕えて重用された。天正17年(1589)には越前国敦賀を与えられ、約2万石を領した(その後、加増されて約5万石)。文禄・慶長の役では、船奉行や軍監を担当するなどし大いに貢献した。
慶長5年(1600)7月、吉継は石田三成ら西軍に与して、東軍の徳川家康に兵を挙げた。しかし、西軍は小早川秀秋らの裏切りなどもあり、敗北を喫した。吉継は秀秋と果敢に戦ったが、敗勢が濃くなる中で自害して果てたのである。
吉継と言えば、ドラマなどで白頭巾を被った姿で描かれることが多い。その理由は、今でいうハンセン病だったからだといわれている。病名の特定はさておき、吉継が眼病を患っていたのは事実である。吉継は顔を隠すため、白頭巾を被っていたという。
それは『関ヶ原合戦誌記』、『関ヶ原軍記大成』などの軍記物語に書かれたもので、『関ヶ原合戦図屏風』でも白頭巾姿で描かれている。ただ、それが事実か否かは疑問がないわけではない。
天正14年(1586)2月、千人斬りの騒動が起こった(『顕如上人貝塚御座所日記』)。記事によると、大谷紀之介(吉継)は、悪瘡に悩んでいたという。そこで、千人を殺害して、その血を舐めると病が治るので、人に命じて行わせていた。むろん、それは迷信の類である。
ところが、吉継は犯人でなく、やがて真犯人が捕らえられた。この記録により、吉継が眼病(ハンセン病)に罹っていたとされている。当時、吉継は21歳だったので、若い頃から眼病に悩まされていたのだ。
文禄3年(1594)10月、吉継は草津温泉(群馬県草津町)で湯治をしており、それは眼病の治療が目的だった。吉継の書状(直江兼続宛)では、眼の病気で花押が据えられないことを詫びており、代わりに印が押されている。