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戦国最弱といわれる小田氏治は、本当に最弱だといえるのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 「もうダメなんじゃないか?」と思うような会社などであっても、けっこうしぶとく生き残っている例はある。小田氏治は戦国最弱の戦国武将といわれているが、本当に最弱なのか考えてみよう。

 氏治は政治の子として、1530年代に誕生した(生年は諸説あり)。小田氏は関東八屋形の名家の一つで、小田城(茨城県つくば市)を本拠とした。関東八屋形は、ほかに宇都宮氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の戦国武将がいる。

 天文17年(1548)に父の政治が亡くなると、氏治には試練が待ち受けていた。当時、小田氏の最大の敵は結城氏だった。氏治は佐竹氏と協力して、北条氏と通じた結城氏と戦った。氏治は北条氏・結城氏に敗北し、小田城を追われることになった。

 当時、北条氏は常陸侵攻を目論んでいたので、やがて小田氏と和睦した。その後、氏治は結城氏との戦いに勝利し、小田城に帰還したのである。以降も氏治には、戦いが待ち構えていた。

 永禄3年(1560)、上杉謙信が北条氏を討伐しようとすると、氏治は謙信に従った。しかし、上杉氏と北条氏の戦いは膠着状態となり、のちに氏治は北条氏に鞍替えした。永禄7年(1564)、謙信は氏治と戦い、小田城から放逐したのである。

 翌年、氏治は奪われていた小田城の奪還に成功したが、永禄9年(1566)に再び謙信の攻撃を受け敗北した。氏治は謙信に降伏し、辛うじて命脈を保ったのである。以後、氏治は生き残るため、再び北条氏に寝返るなどした。

 元亀4年(1573)以降、氏治は佐竹氏と交戦したが、翌年には籠っていた土浦城(茨城県土浦市)が落城した。翌年、北条氏が佐竹氏との戦いに勝利すると、氏治はその動きに乗じて土浦城の奪還に成功した。以降も氏治は、佐竹氏との攻防を繰り広げた。

 天正18年(1590)、氏治は佐竹氏との戦いに勝利したが、小田城を奪い返すことができなかった。一方で、頼みの北条氏が豊臣秀吉に降伏したので(小田原征伐)、ついに氏治は万策が尽きて、大名としての終焉を迎えたのである。

◎まとめ

 小田氏は佐竹氏、北条氏、上杉氏らの諸大名と攻防を繰り広げ、居城の小田城を追われたりしたが、しぶとく生き残っていたのだから戦国最弱とはいえないだろう。最弱なら、すぐに滅亡するはずだ。

 後半では北条氏をバックにして佐竹氏と戦ったが、北条氏が滅亡したので、氏治もその余波を受けた。大名が同盟と離反を繰り返し、生き残りを掛けるのは、むしろ自然な姿なのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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