『光る君へ』最終話 まひろの最後の言葉は本当は何を意味していたのか
「この世をば」何も変えられなかったと詠嘆する道長
『光る君へ』の最終話。大詰めで藤原道長(柄本佑)は「この世はなにも変わっていない。おれはいったい何をやってきたのであろうか」と自分の半生を詠嘆した。
「この世をば我が世ぞとおもう」とかつて詠じていた道長の死の床での言葉である。
それに向かってまひろ(紫式部/吉高由里子)は「戦さのない太平の世を守られました」と言ったが、慰めの言葉にはなっていない。
世を良きものに変えたいと強く願っていた者にとって、よく現状を維持されましたと言われても、かえって否定されたようなものだからだ。
●三郎とまひろの新たな物語
まひろもそれに気づいたのであろう、請われて、新たな物語を彼だけのために語る。
それは三郎(道長)とまひろ(紫式部)の出逢いの物語であり、でも今生で逢ったときとは立場が違っている物語であった。
もういちど生きるのなら、こういう物語はどうだろうというまひろからの提案である。
「川のほとりで出逢った娘は名を名乗らずに去っていきまして……」
こちらのまひろは謎めいたお姫さまのようであった。
いわば輪廻転生の提案であった。
鳥を受け入れる手の形で三郎は死ぬ
毎晩すこしずつ話し、「三郎がそっと手をさしだすと、なんと、その鳥が手の平に乗ってきたのです……つづきは、また、あした……」と話したのが最後になった。
その夜、三郎は死ぬ。静かに一人で死んだ。
布団から手を出し、逃げた鳥を手に受け取る形になったまま、亡くなっていた。妻の倫子が見つけた。
三郎(藤原道長)は、最後、心から愛するまひろ(紫式部)が語ってくれた来世の話を心に留めながら静かに逝ったのである。
凄まじい大河ドラマであった。
三郎の魂魄しばしとどまりて
三郎の魂魄しばしとどまりて、明るくなってから、近くのまひろの屋敷で「まひろ!」と一言かけて、昇天していった。
すべてを終えて天に昇る魂を感じて、筆を止めて、まひろは、そのまま宙を眺める。
まひろは東へ旅をする
まひろの人生は、でもそこでは終わらない。
乙丸(矢部太郎)を連れて旅に出る。
途中、東国へ向かう武者に追い抜かれるから、東へ向かっていたとおもわれる。近江あたりであろうか。
仏教では、死ぬと「西へ」向かうとされている。西方浄土。だから東へ歩いているまひろは死への旅路に出たのではない。
1984年のサラ・コナーと同じセリフ
追い抜く武者を見送りつつ、「嵐が来るわ」と言って進み出したところでストップモーションとなって、ドラマが終わった。
すぐに船岡山の麓の紫野の解説に入った。紫式部の墓所は北大路堀川を少し下がったところ、逆から言うなら堀川柴明を少し上がったところ西側にある。
嵐が来るわとつぶやいて、嵐の方へ歩き出すのは、1984年のサラ・コナーをおもいだしてしまう。
ターミネーターに助けられて未来へ踏み出す女戦士は、13年後に起こる人類殲滅戦争を防ぐため、未来に踏み出した。
「嵐が来る」は本当に予言だったのか
まひろ(紫式部)が嵐が来ると言ったのは長元元年のことである。1028年。
平忠常の乱は起こったが、京都あたりに住んでいるぶんには遠い国での諍いでしかなかっただろう。
こちらに戦火が近づくわけではない。戦乱の世が始まったわけでもない。
京都が戦場となる保元元年の乱までまた120年ほどある。
前触れから嵐が来るまでちょっと長すぎる。
わたしには予言には聞こえなかった。もっと違う意味が感じられた。
理想の死に方
この世でほぼ何も為しえなかったとおもって死にいく三郎は、つまりこの世は無常と感じていたことになる。
太閤さまでもなにか為しえたという実感が得られない。
彼が得たものは、少年のころに出逢った聡明な少女との愛だけだったのではないか。
いざ死ぬ瞬間には、それしか手許に残っていなかった、という物語でもあった。
清少納言と紫式部が仲良かったらという希望
まもなく死にそうなとき、少年のころから憧れていた女性に抱かれ、お話を聞かせてもらいつつ意識が薄れていくというのは、これ以上ない理想の死に方だろう。
『光る君へ』は、こうあって欲しい、という夢や希望を、現存した人たちを借りて次々と見せるのが見事であった。
清少納言と紫式部が晩年いたるまで物書き友だちとして交流していた、というのも、ほんとうにそうあったらいいなあとおもう姿を描いて、そういう部分で、このドラマは得がたい作品となっている。
あなたがいなくなったら世界は平穏ではなくなった
ラストシーンでは「道長さま、嵐が来るわ」といって、まひろが嵐に向かって踏み出したところで映像が止まって、終わった。
これは「あなたがいなくなったら、もう、平穏ではなくなった」というまひろの心情をあらわしているばかりである。
道長が死んで世情が不安定になった、ということではないだろう。そんな事実はない。
平穏でなくなったのはおそらく彼女の心である。
そして嵐に踏み込んでいくのが彼女の覚悟である。
最後にその姿を描いていた。
「道長さま……」と呼びかけることに意味がある
嵐が来る、という言葉は武者の世を予言しているようにも聞こえる。
そう解釈してもいいのだろう。
でも私がおもうにはちょっと先すぎる。
いまいちど、まひろと三郎の物語に立ち帰って、この言葉を聞き直してみると、大事なのは嵐のほうではなく、「道長さま……」という部分ではなかっただろうか。そちらのほうがとても重かったと感じる。
まひろもまた、生きてきた意味は三郎との愛にあったと信じているわけで、亡くなったのちもまだ「道長さま……」と名指しで呼びかけられるところに意味がある。
その名を口にすることが大事
最終話で、正妻の倫子さま(黒木華)に二人のことをほぼ打ち明け、彼とのことは公認の仲になった。
やっと、憚ることなくいつもその名を口にしてよくなったのだ。
名を口にすることが大事だった。
だから、そのあとに続く言葉は、嵐になりそう、でも、天気が良くなりそうでも、たぶん、あまり変わらないのではないか。
嵐といっても、それは123年後の京都の戦乱のことでも、969年後の機械による人類殲滅作戦の始まりのことでも(フィクションですが)、何だっていい。
まひろが三郎と一緒にそれを見ることができないかぎりは、いつの話だって同じである。
愛で繋がっていることこそが大事
この国の実務のトップだった人でも、この世は無常だと感じられる。
そして無常さを感じられずにすむのは、少年のときから変わらず胸に抱いていたおもいであった。
時を超えられるのは、本物の愛でしかない。
つまり、一年をかけて、千年の昔を再現し、歴代帝から摂政関白や公家を総動員したうえで、人は何を為したかではなく、誰と愛で繋がっていたかが大事である、と示したドラマであったことになる。
すごい。
異色な大河ドラマではある。
でも歴史に残る名作だったといえるだろう。
終わったあと、三郎とまひろのために祈りたい気分になっているばかりだ。