木曽義仲は礼儀作法も知らず、京都の人々にバカにされていたのか?
現在は交通機関や情報網の発達などで、地方に住んでいても都会の情報を得るなど不便さはあまりない。ところが、平安時代末期は文化レベルにもかなりの差があった。京都に入った木曽義仲は、田舎者だったので京都の人々に嘲笑されたというので取り上げることにしよう。
義仲は義賢の子として、仁平4年(1154)に武蔵大蔵館(埼玉県嵐山町)で誕生した。義賢は兄の義朝(頼朝の父)と対立し、久寿2年(1155)に義平(義朝の子)によって討たれたので、義仲は信濃木曽谷(長野県木曽町)に逃れたのである。
治承4年(1180)、以仁王が打倒平氏の令旨を各地に送ると、義仲は応じて挙兵した。義仲は信濃から越後へ攻め込み、北陸道から京都を目指した。寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠で平氏を破った義仲は、そのまま入京を果たしたのである。
同年8月、義仲は従五位下・左馬頭となり、京都の治安回復を担うようになった。しかし、当時は飢饉の影響により、略奪行為が横行するなどし、なかなか改善が望めなかった。やがて、義仲は京都の人々に嘲笑されるようになった。
後白河法皇や公家が義仲を「田舎者」として嘲笑したエピソードは、文学作品の『平家物語』に書かれている。義仲は生粋の武者だったので、烏帽子と装束が様になっていなかった。さらに、裾のさばき方などに慣れていなかったので、公家らは陰で義仲を「田舎者」と罵ったのだ。
義仲は馬に乗るのは得意としていたが、牛車に乗ったことがなかった。義仲が初めて牛車に乗ったとき、牛飼いは意地悪をし、わざと牛を荒っぽく引いた、すると、牛車の中で義仲は転げ回ってしまい、後ろから牛車を出てしまったので、人々から嘲笑されたのである。
義仲のもとに、藤原光隆が訪れた。ちょうど昼だったので、義仲は光隆に食事を勧めた。当時、一日二食だったので、光隆は辞退したが、あまりに強引だったので、仕方なく口にした。義仲はそういうしきたりも知らず、食事も食器も粗末だったという。
『平家物語』では、あまり義仲のことをよく書いていない。同じ文学作品の『源平盛衰記』は、義仲を美男であるとする一方で、田舎者だと書いている。そんな義仲が源頼朝から派遣された追討軍と戦い、戦死したのは寿永3年(1184)1月のことである。