高齢者〝から〟語りかける町づくり お年寄りが主役の「話しかけマーケット」
熱い日差しの日、町の小さな交差点の低い塀の縁に、老婦人が座っていました。そこは日陰。私は自転車を停めて、信号を待ちながら〝おあつうございます〟と声をかけると、老婦人がじっと私を見て言いました。
「きれいな方」
私はにっこり。
「座布団もってきますね」
一言二言ことばをかわしてから私はミニスーパーに入り、買い物を済ませて出てくると、既にその姿はありません。歩道に出ると、彼女の背中を遠くに見つけました。爽やかな気持ちになりました。
高齢者への思い込みが話しかけの壁に
2019年版の国民生活基礎調査によると、65歳以上の人のいる世帯数は全国で2558万世帯、うち一人暮らし世帯は3割、750万人となります。
高齢者に抱くイメージはどんなものでしょうか。
ゆっくり休み休み歩く。しばしば通院する。テレビばかり観てしかも大音量の人もいる。耳が遠いから話しかけにくい。ウォーキングする元気な人もいる一方、徘徊して迷子になる人もいる。独居は沈黙社会、1日ひとことも発せずにじっとしている。こんなイメージでしょうか。
しかし実際には、お年寄りは決して「黙っていません」。
先日歯医者で隣のチェアにいた老紳士は実におしゃべり。歯の具合のことや歯磨きのこと、それ以外のことをしゃべりまくるので、医師は困惑していました。おしゃべりな高齢者は多いのです。井戸端でも集会でも、飲食や旅行でも、ひたすらしゃべる人が、男女問わず多い。高齢者=ぼんやりで無口とは限らないのです。
一方、高齢者特有の事情もあります。駅のエスカレータを降りたところで立ち止まる人がいます。この番線でいいか、ホームのどこへ行くかなど、複数のことに同時に注意を向ける「分割的注意」の能力が弱まるからです。これは自動車の運転技能に著明に表れます。また怒りっぽくなるのは性格とは限らず、聴覚や視覚の衰えのせいで状況がつかめず、不安にかられるからでもあります。
私たちの高齢者のイメージと実像のギャップ、高齢に伴う心身の変化への知識不足が、高齢者への話しかけをためらわせ、ますます孤立させているのではないでしょうか。
高齢者はなんでもお見通し
ところであの老婦人は、なぜ私に声をかけたのでしょうか。本当に私をきれいだと思って放ったひと言だったのでしょうか。ひょっとしたら背の高い女(姿)の私を見て、あることを見抜き、咄嗟に「きれいな方」と言ったのかもしれないのです。
なにしろ老人は長く生きているので、さまざまなことを見聞きしています。今の世に孤独な若者が多いことも、苦労するシングルマザーが増えていることも、老老介護の問題も、そして私のように人生をさまよう人がいることを、よく知っているのです。私の亡父は生前こう言ってました。
「今ならよくわかる。だけど気力がな」
さまざまなことが見抜けるようになったが、それを正したりするには年をとってできないというのです。しかし、人は死ぬその日まで生きています。私たちにはできることはあるのです。
お年寄りが主役の〝話しかけマーケット〟
「お年寄りにどう話しかけるか?」から、「お年寄りにどう話しかけてもらうか?」への発想転換をしませんか。お年寄りから話しかける場を作る提案があります。
提案は「話しかけマーケット」という名をつけました。公民館や空き店舗、神社や街角で開くイベントです。高齢者が出店者になり、お客さんは町の人です。市でモノを売り、何かを教えながら、語るのです。出し物の例をあげましょう。
•自宅農園から収穫した野菜を売る。
•育てたメダカを売る。
•けん玉やお手玉を教える。
•トランプ手品を見せる。
•折り紙を教える。
•カメラ撮影法を教えたり証明写真を撮影サービス。
•手作りグラノーラを料理してふるまう。
•蕎麦打ち実演でふるまう。
•手拭いでエコバックを作る。
•股関節の鍛え方を伝授する。
•落語を聞かせる。
かんたんなことでいいのです。話しかけるきっかけですから。
理想形は教え合いっこ
お年寄りから話しかけるマーケットは、「誰かの役に立ちたい」という人間の本質を利用するアイデアです。ですからマーケットの究極の形は「教え合いっこ」です。
たとえば若い人は高齢者にスマホの使い方を教え、高齢者はお返しに若者の悩みを聴いてあげる。教え合いを交換できる話しかけあいが理想なのです。
最後に今週の〝話しかけ上手になるドリル〟です。この提案が「いいね」と思ったら、誰かにこのコラムのことを話しかけてください。日本のどこかで高齢者を主役にする話しかけのイベントが開かれることを!