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学校での「対話」は、ほんとうの対話になっていないのかもしれない

前屋毅フリージャーナリスト
対話型鑑賞の開発者ヤノウィン氏著『どこからそう思う?』の表紙一部  撮影:著者

 現行の学習指導要領は「主体的・対話的で深い学びの実現」を強調している。しかし学校の授業での「対話」は、ほんとうに効果的な対話になっているのだろうか・・・。

| 言い放し・聞き放しでは対話にならない

 美術作品の理解を鑑賞者間の対話によって深めていくのが、「対話型鑑賞」である。ニューヨークの近代美術館(MoMA)で開発された鑑賞法で、これをいちはやく日本に紹介したのが京都芸術大学アートプロデュース学科教授の福のり子さんだった。

 彼女は、京都芸術大学でACOP(Art Communication Project)を起ち上げ、対話型鑑賞の実践教育や普及活動を精力的に行っていく。そこから、対話型鑑賞は日本でも認知されていくのだ。福さんが振り返る。

「私が対話型鑑賞を初めて紹介したころは、『美術館では話してはいけない、静かに鑑賞しなさい』が徹底していました。それが最近は、インターネットで対話型鑑賞を検索してみると、たくさんの項目がヒットします。言葉としては、日本でも知られるようになってきています」

 とはいえ、ほんとうの「対話」が理解されているわけでもなさそうだ。それについて福さんは、次のように説明する。

「対話だというので、個々の見方を発表させるようにはなってきています。でも、言い放し・聞き放しになっている。みんな自由でいろいろな見方ができて良かったね、で終わっている場合が少なからずあります。それでは、対話が成立したとはいえません」

 対話型鑑賞だけではない。学校の授業にも同じことがいえそうだ。学習指導要領で対話が強調されたことで、授業中に子どもたちに「発表」させようとする教員は増えている。それは悪いことではないのだが、ただ「言わせるだけ」で終わっているのが現実ではないだろうか。

 子どもたちの見方なりを言わせるけれども、そこから話を広げていくわけでもなく、「聞いたよ」で終わる。そして子どもたちの多彩な見方を無視するように、最後に「答はこれです」と、教員が「種明かし」をする。子どもたちにしてみれば、あっさり自分の見方・考えを否定されたようなものだ。これでは次に発表するのが嫌になるだろうし、理解も深まっていかなければ、学びの面白さに気づくこともない。これを「対話」と思い込んでいる授業が、じつは少なくない。

「対話型鑑賞は、対話によって集合知をつくりあげていく作業です」と、福さんはいった。

 ほかの人の見方を聞いて、共感できる部分や共感できない部分を確認し合いながら考え、さらに会話を重ねていくなかで、そこから見えてくるものを探っていく。誰かの意見を鵜呑みするのでも、完全否定するのでもなく、お互いを認め合っていくなかで見えてくるものがある。それをつうじて理解が深まり、新しいものにも気づける。それが集合知をつくっていくということだ、と福さんの話を聞いていて考えた。そういう対話にこそ意味がある。学校の授業でも必要な対話ではないだろうか。

「集合知をつくっていく対話型鑑賞にまで理解を深めてもらいたいと考えて開催を決めたのが、今回のフォーラムです」、と福さん。

 そのフォーラムとは、京都芸術大学の主催で8月20日と21日に東京国立博物館平成館大講堂で開かれる「対話型鑑賞 これまでとこれから」である。プログラムのひとつとして、「学校教育と対話型鑑賞」というテーマも設けられている。対話型鑑賞だけでなく、フォーラムは日本の教育界にも刺激を与えるかもしれない。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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