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【インタビュー後編】ブライアン・ダウニー(元シン・リジィ) 今も心にブルースを

山崎智之音楽ライター
Thin Lizzy 1979 (Brian Downey:far right)(写真:Shutterstock/アフロ)

新バンド:ブライアン・ダウニーズ・アライヴ・アンド・デンジャラスで始動したブライアン・ダウニーへのインタビュー後編をお届けする。

ブライアンといえばシン・リジィの不動のドラマーとして愛されてきたミュージシャンだ。これまで海外メディアではしばしばシン・リジィとそのリーダー、フィル・ライノットについて語ってきた彼だが、今回のインタビューでは若干異なったアングルから迫ってみたい。

インタビュー前編ではその近況とゲイリー・ムーアとの出会いについて語ってもらったが、今回はブライアンとブルース・ミュージックとの関わり、そして『スティル・ゴット・ザ・ブルース』(1990)以降のゲイリーとの交流について訊いてみよう。

2011年のゲイリーの死から8年が経とうとするが、ブライアンは“スティル・ゴット・ザ・ブルース”=今も心にブルースを抱き続けているのだ。

<ブルースを忘れたことは一度もない>

●ブルース音楽とはどのように出会ったのですか?

1965年頃かな、私はフィル(ライノット)とブラック・イーグルスというバンドをやっていたんだ。最初のギタリストが脱退して、アラン・シンクレアが加入した。彼とはダブリンの楽器店“ウォルトンズ”で会って顔見知りだったんだ。それから数ヶ月後、アランに「ブルースとかリズム&ブルースという音楽は知ってる?」と訊かれた。名前は知っているけど、違いが判らないと答えたら、「アメリカ黒人のブルースをコマーシャルにしたのがリズム&ブルースだ」と言われた。ふーん、そんなものなのかな、と怪訝な顔をしていたせいか、ヤードバーズの『ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ』を貸してくれたんだ。家で聴いて、完璧にノックアウトされたよ。ギタリストはエリック・クラプトンで、リズム&ブルースからスロー・ブルースまで、さまざまな曲にありったけの魂を込めていた。このアルバムでブルースという音楽スタイルを知って、ヤードバーズがプレイしている曲のオリジナルを探すようになったんだ。ハウリン・ウルフやマディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー...アイルランドで彼らのレコードを入手するのは難しかった。アランはイギリスの音楽紙“メロディ・メイカー”の広告を隅々まで読んで、アメリカから輸入すると言っていたよ。1960年代には音楽に関するあらゆる情報を“メロディ・メイカー”で得ていた。アメリカのブルースメンはイギリスで公演を行ったけど、アイルランドには来なかったから、いつも紙面を読んで悔しい思いをしたよ(苦笑)。

●1960年代中盤から後半にかけて、イギリスでは一大ブルース・ブームが到来しましたが、あなたはダブリンでどのように関わっていましたか?

1966年、エリック・クラプトンがヤードバーズを脱退して、ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズに加入したと知ったんだ。エリックは私のお気に入りのギタリストだったから、すぐにアルバム『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』を買いに走った。それで私の人生が変わったんだ。私はドラマーだけど、エリックのギターはアメリカのブルースメン以上に本格的で、それでいて斬新だった。それでシュガー・シャックでは自分の愛するブルースを追求することにしたんだ。ゲイリー・ムーアもブルース・ファンだったし、しょっちゅうブルースの話をしたよ。彼はシュガー・シャックのライヴを見に来て、「さっきのは誰の曲?」とよく訊いてきた。お互いに刺激を与えあっていたんだ。彼もヤードバーズやジョン・メイオールが好きだったし、スキッド・ロウに加入して、フリートウッド・マックのピーター・グリーンに気に入られたりした。私は友人として誇らしく思ったよ。それからゲイリーはシン・リジィに何度も加入して、最高傑作のひとつである『ブラック・ローズ』(1979)を作ることになるんだから、人生は不思議なものだね。あのアルバムでプレイしたことは、自分のミュージシャン人生のハイライトのひとつだよ。

●あなたもゲイリーもロックの分野で成功を収めて、ブルースとは距離を置いていましたが、1970年代にもブルースは聴いていましたか?

Thin Lizzy『Black Rose: A Rock Legend』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)
Thin Lizzy『Black Rose: A Rock Legend』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)

もちろんだよ。ゲイリーも私も、ブルースを忘れたことは一度もなかった。シン・リジィのサウンドチェックや楽屋では、よくブルースをジャムしていたよ。「ステッピン・アウト」や「オール・ユア・ラヴ」、「ハイダウェイ」、それから「ザ・スタンブル」をやることもあった。ジョン・メイオールズ・ブルースブレカーズからはあらゆることを学んだよ。ジャムではブルースブレイカーズのヴァージョンの完コピを目指した。フィルやスコット(ゴーハム)もジャムに参加することがあったよ。フィルは良い音楽だったら何でも好きだったし、ブルースにも理解があったんだ。

●シン・リジィのブルース・ジャム音源が残っていないのは残念です!

そうだね。「ブルース・シンガーの一夜」という曲をスタジオ・ジャム形式でレコーディングしたけど、残っているのはそれぐらいだ(フィルのソロ・シングル「ナインティーン」<1985>のB面として発表された)。もっといろんな機会にテープを回しておけば良かったね。ゲイリーがシン・リジィにいたころ、ツアー先の都市でブルース・クラブがあると見に行って、その日プレイしているバンドとジャムをやったりしていたんだ。ジャムをした後、私たちがシン・リジィのメンバーだと知ると、彼らは目を丸くしていたよ(笑)。シカゴなどにはまったく無名なのに凄腕のブルース・バンドがいるんだ。世界のどこであっても、ゲイリーと共演するのは楽しかったね。

Brian Downey's Alive and Dangerous / photo by Diane Webb
Brian Downey's Alive and Dangerous / photo by Diane Webb

<ゲイリーは言っていた。「やっぱりB.B.は“キング=王様”だ」って>

●ロックで成功を収めていたゲイリーがブルース・アルバム『スティル・ゴット・ザ・ブルース』(1990)を作ると聞いたとき、どう思いましたか?

すごくエキサイトしたよ。「ついにこの時が来たか!」ってね。ゲイリーにドラムスを叩いて欲しいと頼まれて、「もちろんやるよ」と即答したのを覚えている。あのアルバムでは3曲でプレイしたんだ(「テキサス・ストラット」「キング・オブ・ザ・ブルース」「アズ・ジ・イヤーズ・ゴー・パッシング・バイ」)。 ダブリンからロンドンに呼んでもらって、レコーディング・セッションをやったのは本当に楽しかった。約1週間から10日だったかな。ゲイリーにとってブルースの原点への回帰だったのと同時に、私にとっても久々にブルースをプレイする機会だった。

●『スティル・ゴット・ザ・ブルース』というアルバムをどのように評価しますか?

Gary Moore『Still Got The Blues』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)
Gary Moore『Still Got The Blues』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)

今聴いても素晴らしいアルバムだよ。完成したアルバムを聴かされて、素晴らしいミックスだと感じたね。『スティル・ゴット・ザ・ブルース』は当初、ゲイリーにとって“ひと休み”になる筈だった。いずれ再びロックに戻ることが前提だったんだ。そうしたら大ヒットして、彼は自分のキャリアを真剣に見直すことになった。彼にとってブルースは最も愛する音楽スタイルだし、それが世界中のファンに受け入れられるならば、続けない理由がないよね。それで彼はブルース路線に進むことになったんだ。そうして彼はブルース・ギタリストとして名を成して、多くの若手に影響を与えた。ジョー・ボナマッサなんて良い例だよ。

●『スティル・ゴット・ザ・ブルース』に伴うツアーには誘われなかったのですか?

いや、ゲイリーは既に別のドラマーとツアーすることが決まっていたんだ(グレアム・ウォーカー)。その頃、私は大規模なワールド・ツアーから撤退していたし、ゲイリーもロック時代に一緒にやっていたミュージシャンと距離を置きたかったと思う。だから仕方ないことだったよ。

●それからずっとゲイリーとは連絡を取り合っていたのですか?

いつも話していたわけではないけど、数年に一度は電話で話したりしていたよ。それであるとき、ダブリンにフィルの銅像が建つことになったんで、何か一緒にやろうという話になったんだ。それから話が転がっていって、シン・リジィの曲をプレイするライヴをやることになった(2005年8月20日、ダブリンの“ザ・ポイント”で行われたコンサート。現在では映像作品『ワン・ナイト・イン・ダブリン〜トリビュート・トゥ・フィル・ライノット』で見ることが出来る)。スコットやエリック・ベル、ブライアン・ロバートソンも一緒にステージに上がって、胸がいっぱいになったよ。ゲイリーと演奏することで生まれる熱いエネルギーを再確認して、彼もそれを感じたんだと思う。彼のバンドでのツアーに誘われることになったんだ。

●2006年3月から4月の、B.B.キングの“UKフェアウェル・ツアー”ですね。

うん、人生で忘れられないツアーだよ。ゲイリーから誘われたとき、自分の耳を疑った。ツアーは短くて、5公演しかなかったけど、イギリス最大のコンサート会場のひとつであるロンドンのウェンブリー・アリーナで、B.B.とのダブル・ヘッドライナー・ショーをやるというのはすごいスリルだったね。私は長年B.B.のファンだったけど一緒にツアーしたことはなかったから、ひとつの部屋でB.B.とゲイリーと一緒にいるのは緊張したよ。B.B.本人はもちろん、彼のバンドも、リズム・セクションやホーンズを含めて、みんな素晴らしいプレイヤー達だった。お客さんもすごい盛り上がりだった。立ち上がって、足を踏み鳴らして、大きな声を上げていたよ。B.B.のファンの声援を聞いて、ゲイリーがつぶやいていたのを覚えている。「ダブル・ヘッドライナーということになっているけど、やっぱりB.B.は“キング=王様”だよなあ」ってね。

Brian Downey / photo by Tanja Young
Brian Downey / photo by Tanja Young

●それからゲイリーの『クローズ・アズ・ユー・ゲット』(2007)でプレイして、ツアーに同行した経験はどのようなものでしたか?

毎日が楽しかったね。ブルースをプレイして、ショーが終わると一杯やって、町から町に旅して、十代の頃に戻ったようだった。あらゆるストレスから解放された時期だったよ。

●ゲイリーのバンドを辞めたのは、どんな事情があったのですか?

もう3年半ゲイリーとやっていたし、スコットと再結成シン・リジィでツアーする話が持ち上がっていたんだ。シン・リジィは自分にとって故郷だし、声がかかったら参加することにしていた。ゲイリーには「シン・リジィをやることになったら辞めなければならない」と事前に伝えていたし、理解してもらっていたんだ。そのときが来たということなんだよ。決してケンカ別れしたわけじゃないし、それからも連絡は取り合っていた。

●最後に彼と連絡を取ったのはいつですか?

最後に直接会ったのは『クローズ・アズ・ユー・ゲット』ツアーだったと思う。それから電話で連絡を取り合っていて、ゲイリーが亡くなる8ヶ月ぐらい前、(2010年の)秋頃に話した。特別な用事があったわけではなく、「元気?」みたいな感じでね。そのときは元気そうな口調だったし、まさか亡くなるなんて夢にも思わなかった。

●ゲイリーの体調が良くないことは知っていましたか?

ゲイリーが亡くなる数ヶ月前、彼の写真を見て、すごく体重が増えていると思った。不健康に見えたことは確かだ。それが彼の死に関係していたかは判らないけど、おそらく無関係ではなかっただろうね。ただゲイリーは元々、体重の増減が激しい人物だった。すごく太ったかと思ったらガクンと痩せたりしていたんだ。私が彼のバンドにいた頃は元気そうだったし、彼が突然去ってしまって、ショックを受けたよ。ゲイリーの死体解剖報告書を読んだけど、酷い状態だったんだ。内臓が 2倍に肥大していたりしていた。彼は大酒飲みでもなかったし、ドラッグに手を出してもいなかったのに、何故?...と思った。フィルの死体解剖報告書に似ていたんだ。本当に悲しかった。今でも2人のことを思い出すよ。

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式サイト

https://www.briandowneysaliveanddangerous.com

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式Facebook

https://www.facebook.com/briandowneysaliveanddangerous

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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