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一線を超えた香港デモ――「優秀な人材が潰されるシステム」はどこへ行く

六辻彰二国際政治学者
「香港に自由を」のペイントの前で催涙弾を発砲する警察官(2019.10.1)(写真:ロイター/アフロ)
  • 香港では抗議デモに参加する若者が多いだけでなく、とりわけ高学歴の若者ほど海外移住を目指す者も多く、両者は社会のあり方を拒絶する点で共通する
  • 一方で、香港政府の責任者、林鄭月娥長官は優秀な公務員だが、騒乱の責任の大部分を負うはずのボスから権限を与えられないまま、対応することを求められている
  • 香港デモの当事者である両者の姿は、優秀な人材が潰されるシステムの弊害を浮き彫りにする

 デモに参加していた18歳の若者が警官の発砲を受けたことで、香港デモは新たな局面を迎えた。エスカレートする騒乱は中国による統治がかかえる根本的な問題を図らずも浮き彫りにしたといえる。それは優秀な人材が潰されるシステムである。

優秀な若者ほど海外を目指す

 香港のデモは若者が中心だが、その背景には「がんばっても将来の見通しが開けない社会」への不満がある。

 1997年の返還以降、中国資本が大量に流入し、さらに本土との取引が増えたことで、香港ではそれ以前にも増して景気がよくなった。

 ただし、その一方でインフレが歯止めなく進行した結果、生活コストは上昇。とりわけ住宅難は深刻で、一人あたり床面積は16平方メートルにとどまる。これは日本の国土交通省が住生活基本計画で定める一人あたり25平方メートルと比べても狭い。

 こうした不満を背景とする抗議活動と並行して、香港では若者を中心に海外移住も盛んだ。台湾の中央研究院の呉親恩博士の調査によると、香港では42.7%が海外移住の意向をもっており、これは台湾(38.5%)や日本(29.6%)と比べても高い。

 さらに香港政府によると、海外に移住する者は過去5年間、毎年10%前後のペースで増加しており、2017年だけで24300人にのぼったが、なかでも若者が増加している。

 デモへの参加と海外移住は、手法こそ違うものの、社会の現状を拒絶するという意味では同じだ。「文句があるなら出ていけ」といわんばかりの支配は、実際に出ていける優秀な若者の流出を促してきたといえる。

行政長官の悲哀

 その一方で、「潰されている」のは若者だけでなく、香港デモのもう一方の当事者である行政長官も同じだ。

 デモが3カ月を超え、長期化するにつれ、香港政府の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官への非難は、香港市民の間でも高まる一方だ。

 ただし、彼女を擁護する気は全くないが、同情の余地はある。というのは、「問題発生に大きな責任を負うはずのボスから事態の処理を押し付けられ、しかも実質的な解決を目指す権限もほとんど与えられていない」からだ。

 香港の行政長官は中国政府によって任命される。一国二制度のもと、建前では独自の権限が与えられながらも、その権限は実質的には北京に徐々に浸食されてきた。そのため、先述したような生活問題もほとんど改善できなかった。

 つまり、「将来が奪われている」という若者の不満は、その原因のほとんどが中国政府にあるとみてよい。

 その中国政府は、軍事介入すら匂わせながら香港政府に厳しい取り締まりを求める一方、国際世論への配慮から「できるだけ死傷者を出さないように、しかも速やかに」という暗黙のプレッシャーもかけてきた。

 これに対して、その出先機関の責任者である林鄭長官は、習近平国家主席に「中国による香港の扱いを改めてほしい」とはいえないまま、ただ混乱の収束に当たらざるを得ない

 そのうえ、林鄭長官としても、中国の軍事介入を受け入れることは、北京からのさらなる介入を許すことになるだけでなく、現在は静観している多くの年長市民の反感をも大きくするため、できれば避けたいところだろう。

 だとすると、9月24日の会見で林鄭長官が「警察は極度の圧力に直面している」と発言したことは、「下」からだけでなく「上」からの圧力も指すとみた方がよいだろう。また、この会見で過去数カ月で死者が出ていないことを「注目に値する」と述べたことも、ただの言い逃れともいえない。

 いずれにせよ、八方ふさがりのなか、香港市民の決定的な離反を避けるためには(死傷者もいとわない)中国式の厳罰主義もとれず、かといって林鄭長官にはデモ隊と実質的な交渉をする権限もない

 それは結果的にデモの長期化にもつながり、その状況がデモ隊だけでなく治安当局のフラストレーションも高めていたことは想像に難くない。だとすると、今回の発砲は、時間の問題だったともいえる。

優秀なエリートの忠誠心

 林鄭長官は優秀な公務員と評価されて、中国政府によって香港の最高責任者に任命された。しかし、本来は共産党体制とかけ離れた経歴をもっている。

 1957年生まれの林鄭氏は、カトリック系高校に学び、イギリス統治下のリベラルな気風のもとで育った。その後、香港大学に学びながら学生運動にも参加。民主派の政治家とも近く、ケンブリッジ大学に進んだ後、1980年に香港市庁に入庁した。

 2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)蔓延の際には、社会福祉部の幹部として、親を亡くした子どもが高等教育を受けるための基金設立に従事し、2007年には開発局長としてクイーンズ埠頭の撤去に反対する住民の説得にあたり、「タフ・ファイター」とも呼ばれた。

 このように住民目線の政策にかかわっていた林鄭氏は、しかし公務員として優秀で、指揮命令系統に忠実であるがゆえに、共産党体制を支える役人に徐々に変貌していった

 建設局長だった2012年、都市再開発の一環として、馬頭囲地区にあった不法建築の家屋を一掃する命令を下したが、中国政府と関係の深いエスタブリッシュメントが多い新界地区の不法建築物を黙認したことは、これを象徴する。こうして出世街道を進んだ林鄭氏は、2017年7月に行政長官に任命された。

 風通しのよくない体制や組織のもとでは、優秀な人間ほど、その体制や組織から求められる目的に忠実であろうとして、結果的に多くの人々とかけ離れた方向に向かいがちだが、林鄭長官もそうした一人といえるかもしれない。

 しかし、先述のように、香港政府にとれる選択肢はほとんどなく、実質的には中国政府が強権を発動するか、住民が納得する提案をするかしなければ、事態の収拾は難しい。いずれの場合も、林鄭長官が責任を問われ、「切られる」公算は高い。だとすると、将来の描きにくいシステムのもとで潰されるという意味で、林鄭長官は彼女を批判する若者と同じといえるだろう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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