世田谷ボロ市名物の代官餅は、なぜ1〜2時間待ちの行列ができるのか
東京・世田谷(せたがや)のボロ市に行ってみた。筆者は幼少時、亡父の転勤で、一時期、世田谷区に住んでいたことがある。が、ボロ市には一度も行ったことがない。なぜ行く気になったかというと、2018年1月13日に放映された、テレビ東京系列の「アド街ック天国」で紹介されたのを見たからだ。日本最大の規模を誇る「大江戸骨董市」にはこれまで何度も足を運んできたが、世田谷の骨董市には一度も行ったことがなかった。
世田谷区は、筆者がフードバンク(セカンドハーベスト・ジャパン)の広報を務めている時から、区のイベントで、家庭の余剰食品を集めて必要なところへ寄付する「フードドライブ」で協力して下さっていた。当時は単発イベントのみだったが、議員の方に聞いたところ、今では常設のフードドライブを実施するまでになった。区のホームページでは、集まった食品の重量から、削減できた二酸化炭素量を発表し、環境への効果を謳うなど、東京都23区内でも、食品ロス削減対策の分野では先進自治体である。もしかしたらボロ市でもフードドライブの箱が設置されているのかな、という思いもあった。
「ボロ市」は、安土桃山時代の天正6年(1578年)に始まり、430年以上もの歴史を持つ。世田谷区の公式サイトによれば、当時、関東地方を支配していた小田原城主北条氏政が開いたのが始まりだそうだ。
「ボロ市」という名前の由来は、明治20年代に主に扱っていた、古着やボロ布を指しているという。毎年、12月15・16日、1月15・16日に開催されており、一日に数十万人以上もの人出があるとのこと。
放映された中でも気になっていたのが、ボロ市名物の「代官餅(だいかんもち)」だ。昔ながらの餅つきの手法でついた餅に、それぞれ、あんこ、きな粉、からみ(大根おろしと醤油、海苔)の3種類の味をつけて、パックしている。値段は各700円。
これを求めて毎年、1〜2時間待ちの行列ができるという。「え?ただのお餅なのに」と思ってしまった。日頃、行列してまで何かを買うことがほとんどない。
だが今回は、行く前に「お土産買ってきて。食べ物の」と頼まれたこともあり、「せっかくここまで来たんだし」と思って、試しに並んでみることにした。並び始めた直後にストップウォッチをかけて、並んだ時間を測定しておいた。
行列・・・というと、たいがいは、一直線の長い列を思い描く。だが、代官餅を買うための列は、一列には並びきれないくらい長い。餅を売るブースの前で並び、曲がり角で直角に曲がり、道に面したところで180度折り返し、・・・といった具合で、長い列の折り返しポイントが4箇所もあった。私が並んだのが午前10時30分。後で見てみると、その折り返しのポイントが5箇所に増えていた。
幸い、晴れていたので、日陰は寒いが、陽が当たっているところは暖かい。私の前には男女2人組、後ろには若い女性の2人組が並んでいた。他にも、ベビーカーを押している夫婦、文庫本を熱心に読んでいる女性、ぺちゃくちゃおしゃべりしている年配女性、新聞を読んでいる熟年女性、赤ちゃんを抱っこひもで抱っこしている3人組の母親など、様々な世代の人たちが並んでいた。
筆者は、スマートフォンで英単語を覚えたり、手帳に書き留めた今年の目標のメモを読んだりして過ごした。
1時間以上並んでいる間に、何人もの人たちが、行列を見に来た。ほとんどの人が、行列の人数のあまりの多さに驚きの声をあげ、「えーこんなに並んでるの?」「これ全部?」「やめようやめよう」などと、家族や連れの人と口々につぶやいて、その場を去っていった。
そうこうしているうちに、ようやく、お餅が販売されているテントに近づいて来た。なんとも言えない、いい匂いがしてくる。
3種類全部を買おうか迷ったが、あんこ(粒あん)と、からみの2種類を購入した。この時点でストップウォッチをみると、1時間16分だった。
手に入れた人々は、外に準備された、温かいお茶を飲みながら、割り箸を使って、受け取ったばかりの代官餅を頬張っている。
手に入れてホッとして、ボロ市通りに戻ってきたら、まるで満員電車のような混み具合だった。
私が廻ってみた限り、ボロ市通りやそれ以外の通りでフードドライブを実施している様子は見られなかった。
世田谷線の上町駅を通り過ぎて、豪徳寺へ向かった。
豪徳寺は、招き猫の寺、とも言われている。
この日も「招福観音」の招き猫を買い求める人や、ご朱印帳を持って来る人が次々と訪れていた。
帰宅してから、ようやく、代官餅を食べてみた。買った時から、醤油と大根の、なんとも言えない匂いがしていたので、まずは「からみ」餅を食べた。
これまで、大根おろしでお餅を食べたことは数回しかなかった。なんだか、辛そうで、敬遠していた。が、大根おろしを絡めた餅がこんなに美味しいものなのだと驚いた。大根だけでなく、刻んだねぎや、鰹節なども入っていて、醤油で味付けしてあり、大根おろし特有の、辛過ぎるような辛味がない。「ここでしか食べられない」「年に4回だけの味」ということで、長い行列ができるのも理解できた。
具の大根おろしだけではない。餅そのものも、餅米(もちごめ)から炊いて、昔ながらの方法でついて作った、噛みごたえと粘りのある、まさに「もちもち」した食感だった。
「あんこ」は、期待していた通り、美味しい味だった。
小豆(あずき)を水に浸し、コトコトと時間をかけてじっくり煮込んで作った粒あんなのだろう、と思った。
おそらく、長時間行列して代官餅を買った人たちは、全部食べきり、残さないだろう。売る側も、夕方には売り切れてしまう、というので、売れ残って捨てることはないだろう。
現在、日本全国で、「売り切れること」=「善」としている企業がどれだけあるだろうか。「売り切れ」→「欠品」=「悪」なのだ。多くのメーカーが、「欠品すると(小売店から)取引停止にされるから、欠品は絶対にしない」と話している。大手コンビニエンスストアも、「食品ロスより、販売機会ロスの方が重要」だと書籍の中で答えている。売り切ることは悪なのだ。そのような風潮の中で、手作りの食べ物を「売り切れごめん」にしているのは潔い。
次の計算式の合計が大きいほど、人は、食べ物を残さないような気がした。
(その食べ物への欲求度)掛ける(その食べ物を得るために費やした時間)掛ける(その食べ物を得るために費やした金額)
もちろん、「味が美味しい」「作った人への思い」など、食べ残さない理由は、他にいくつもあるだろう。
西川口の新中華街 ハラル料理と蘭州ラーメン「ザムザムの泉」の食品ロスが少ない5つの理由でも触れたが、その食べ物を「わざわざ」買いに来た、もしくは食べに来たお客さんは、ほとんど、食べ物を残さない。この「わざわざ」感が、個人の食べ残しを無くすポイントの一つではないだろうか。その人は、時間や交通手段などで、ある種の「不便さ」「面倒臭さ」を乗り越えて来ている。
つい先日、スーパーの見切り品販売で、大量の餅・・・パックされた鏡餅を目にしたところだった。そうか、賞味期限が迫っているのか・・・と思い、確認したら、賞味期限が切れるまで、まだ3ヶ月半残っていた(2018年の正月明けに見た時点で、2018年4月30日)。おそらく販売期限が切れたのだろう。賞味期限を基準にして考えたというより、正月明けたら鏡餅の需要はないと判断し、棚から撤去されたのだと思う。
同じように「餅」としてこの世に生まれたのに、一方は食べられもせずに大量に廃棄され、もう一方は、1時間も2時間も並んで食べるのを待ち望まれ、食べきり、売りきれる。「餅」として、どちらが幸せなのだろう。
食品がすぐに手に入って便利なこと、家庭に冷蔵庫があって大量に保管できること、効率よく調理ができること。「便利」「効率的」「時短」といったキーワードは、よいものとされている。もちろん、必要なことなのだが、もしかすると、こればかりを過剰に追い求めていると、失うものも大きいのかもしれない。
かといって、日常の生活で、三食毎食「わざわざ」時間をかけるのは現実的ではない。すぐに手に入れられて便利な食べ物も、実は、その背後に、目に見えない人たちの時間や手間や労力がかけられていることを想像できるかどうか。目に見えないものを観る力、思いを馳せる姿勢が必要なのではないかと感じた。