大坂の陣後、宣教師は大坂城から逃げ出し、途中で修道服を剥がされ丸裸にされた
戦争の悲劇は、今も日々の報道で伝わってくる。たとえ命を失わなかったとしても、悲惨な現実が待ち構えているのが現状だ。それは大坂の陣も同じことで、宣教師には過酷な運命が待ち構えていたので紹介することにしよう。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣がはじまり、豊臣秀頼と徳川家康は雌雄を決することになった。その際、全国の大名は家康に味方したが、秀頼に与した大名は皆無だった。そこで、秀頼は多額の金銀を準備して、牢人を大坂城に招き入れたのである。
牢人の中には、キリシタンもいた。当時、家康が発布した禁教令によって、多数のキリシタン牢人が発生していた。彼らは仕官先を失ったので、仕官先を求めて各地を放浪していたのである。
大坂城には、仕官先を失った各地のキリシタン牢人たちが数多く入城していた。貴重な戦力だったといえよう。ほかにも、キリスト教を信仰する普通の人々も大坂城に入城していたのである。
それに伴って、本来は国外への退去を求められた宣教師らも、無断で大坂城に入城していた。一説によると、宣教師は秀頼が家康に勝利した暁には、キリスト教の布教を認められることになっていたという。
むろんそれだけでなく、宣教師は信仰心の厚いキリシタン牢人や一般の信者を見捨てることができなかったのだろう。
しかし、宣教師は皮肉にも、大坂城落城後の悲惨な状況を目の当たりにすることになった。同時に、自らも悲惨な体験をすることになったのである。次に、その一端を紹介することにしよう。
『日本切支丹宗門史』によると、大坂城の落城後、付近の戦場は死体で満ち溢れていたという。河川は、死体で堤防が築かれたほどだった。人々は死体の山の上を歩いて、河川を横切ったのである。死体から溢れ出る腐臭は、周囲を覆い尽くしたと考えられる。
一説によると、死者の数は10万前後だったというので、あながち誇張した表現ではないと考えられる。夥しい死体であたりが埋め尽くされたのは、事実と見て間違いないだろう。
恐ろしいことに、戦場では略奪があった。たとえば、ある宣教師は刀を突きつけられ、兵士に財布や金品をことごとく強奪されたという。金品だけならまだよいが、修道服を剥がされ丸裸にされた宣教師もいた(『日本切支丹宗門史』)。
宣教師は仕方なく裸のまま、死体の山を8キロメートルほど歩いて逃げたという。金品や衣服の強奪は、ほかにも類例が見られる(「ポルロ書翰」)。略奪という行為は、異国からやって来た宣教師にも容赦なく牙を剥いたのである。