「光る君へ」の登場人物はなぜ姓名間に「の」が入るのか
2024年のNHK大河ドラマは「光る君へ」。主人公は紫式部で、舞台は平安中期の朝廷である。7日の第1回放送をみると、登場する藤原道長や安倍晴明は「ふじわら・の・みちなが」「あべ・の・はるあきら」と姓名間に「の」が入っている。
しかし、昨年の大河ドラマ「どうする家康」に登場した徳川家康や織田信長などは「の」は入らなかった。
歴史の教科書でも当たり前にように区別されていたこの違いは、一体どこから来ているのだろうか。
「姓」と「名字」
現代では、「姓」と「名字」は同じ意味として使われている。筆者の名字は「森岡」だが、これを「姓」と言っても間違いではない。
しかし江戸時代以前は、「姓」と「名字」はまったく別のものだった。「姓」とは一族のルーツを示すもので、同じ氏族に属している人は皆同じ「姓」を名乗っていた。
「名字」がいつできたかははっきりしていないが、「光る君へ」の時代には都ではまだ「名字」は生まれておらず、このドラマの登場人物が名乗っているのは「姓」である。
従って、主人公紫式部は藤原北家良門流、紫式部の夫となる佐々木蔵之介演じる藤原宣孝は藤原北家勧修寺流、秋山竜次演じる藤原実資は藤原北家小野宮流と、それぞれ違う流れに属しているものの、すべて藤原鎌足の子孫であることから「藤原」という同じ「姓」を名乗っている。
藤原氏が朝廷を席巻していたこの時代、朝廷の貴族の大半は藤原氏であった。そのため、このドラマに登場する貴族たちは藤原氏ばかりで区別がつきづらい。そこで、貴族達はやがて自らの邸宅のある場所の地名や建立した寺院の名称を使って、「自分の家」を表す称号を用いるようになる。
こうして生まれた「一条」「九条」や「勧修寺(かじゅうじ)」「西園寺(さいおんじ)」といった家号が次第に定着して「名字」となっていった。
同じ頃、東国の武士たちも自らの支配する土地を明確にするために、本来の「姓」とは別にその土地の地名を名乗るようになる。伊豆北条を本拠とした平氏の一族は「北条」、伊豆伊東を領した藤原氏の一族は「伊東」を名字とした。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はこうした名字を名乗り始めた武士達の時代であった。
当初は「姓」も「名字」も間に「の」を入れていたが、次第に「姓」は姓名間に「の」を入れて読み、「名字」では名字と名前の間には「の」を入れないことで区別する、という慣習が生まれた。
従って、「姓」を名乗っている平安貴族には「の」が入り、「名字」を名乗っている中世以降の人物は「の」を入れずによむことになっている。
「名字」の広がり
都の公家と東国の武士で別々に誕生した「名字」は、やがて多くの階層に広がっていく。和歌山県紀の川市粉河(こかわ)の王子神社に伝わる「名つけ帳」でもあきらかなように、室町時代にはすでに農民の間でも「名字」が使用されていた。
こうした「名字」と「姓」との決定的な違いは、「姓」は公的なもので原則変更できないのに対し、「名字」は私的なもので自分の意志で変更することができたということである。
そして、公的な書類には「名字」ではなく「姓」を記載した。この習慣は明治になっても続いていた。佐賀出身の政治家大隈重信は「名字」が「大隈」で、「姓」が「菅原」である。日常では「大隈重信」と名乗っていたが、明治2年に出された大蔵大輔兼任の辞令には「従四位民部大輔菅原朝臣重信」とあり、「名字」を使った「大隈重信」ではなく「姓」を記した「菅原朝臣重信」と書かれている。