本来は平氏の嫡流だったはずの「光る君へ」の平惟仲
大河ドラマ「光る君へ」に藤原兼家の家司として平惟仲という人物が登場する。藤原有国とともに兼家の「左右の眼」ともいわれ、兼家没後は道長に接近して従二位中納言まで昇る有能な人物であり、今後もドラマで重要な役割をつとめると思われる。とはいうものの教科書には登場せず、一般的な知名度も低い。
「平惟仲」という名前からもわかるように平氏の一族である。しかし、一般的にみられる平氏の系図を見ても、惟仲の名を見つけるのは難しい。一体、桓武平氏の中でどういう立場にあるのだろうか。
源氏と平氏
源氏には有名な清和源氏を始め、嵯峨源氏、村上源氏、宇多源氏など多くの流れがあり、それぞれ公家や武士を輩出した。
それに対して、平氏もいくつかの流れはあるものの、公家や有名な武家を輩出したのはほぼ桓武平氏に限られ、平清盛など一般に「平氏」と呼ばれる人物や一族はみな桓武平氏の末裔で、惟仲も桓武平氏の一族である。
桓武平氏の流れ
桓武平氏はもちろん桓武天皇の子孫。まず桓武天皇の孫の高棟王が。天長2年(825)に「平」の姓を賜って平高棟となり、後に高棟の甥(弟高見王の子)にあたる高望王(桓武天皇の曾孫)も宇多天皇から「平」の姓を賜って平高望となった。系図的には葛原親王の長男である高棟の方が嫡流なのだが、子孫が繁栄したのは高望の子孫である。
高望の子達は嫡流ではないため、関東に降って土着、武士化して坂東平氏といわれる多くの氏族にわかれた。平将門は高望の孫にあたる他、千葉氏や三浦氏といった関東の有力武家も高望の子孫である。
また、伊勢国に所領を持って朝廷に仕えた一族もあり、伊勢平氏といわれるようになる。ここから登場するのが平清盛で、後の平安末期の平氏政権は平高望の子孫が興した政権である。
一方、本来は嫡流であるはずの平高棟の子孫は都にとどまり、孫時望の子の時代に二つの流れにわかれる。時望の長男を珍材といい、二男を真材という。
子孫が栄えたのは二男真材の方であった。真材8代の子孫が平清盛の妻時子で、その弟が「平氏にあらずんば人にあらず」と言ったとされる時忠である。この一族からは公家西洞院家も出ている。
通常、平氏の系図といって書かれているのはこのあたりまでで、この中には惟仲の名は出てこない。
本来は嫡流だったはずの惟仲
実は、惟仲は珍材の長男である。系図的には桓武平氏の嫡流である平高棟が祖で、その孫時望の長男珍材のさらに長男というれっきとした直系で、江戸時代なら「嫡流」「本家」という立場にあたる家である。しかし、子孫から公家や武家が出なかったために、桓武平氏の中ではすっかり傍流の扱いとなっている。
この時代は、近世以降と違って長男が家を継いで代々決まった職を務めていくというわけではない。あくまで本人の努力によって昇進することが必要であり、当時の公卿たちは様々な手を使って昇進に眼の色を変えたのである。