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織田信長が朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨を薄濃にした真意とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
朝倉氏が滅亡した一乗谷。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が浅井・朝倉連合軍を打ち破り勝利したシーンが省略されていた。戦後、信長はなぜ、朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨を薄濃にしたのだろうか。

 天正元年(1573)8月、織田信長は大軍勢を越前に送り込むと、一乗谷(福井市)で朝倉義景を滅亡に追い込んだ。その後、信長は近江に引き返すと、浅井久政・長政父子が籠る小谷城(滋賀県長浜市)を攻撃したのである。

 信長は木下秀吉を派遣し、浅井氏に降伏を勧告したが、長政は決して応じなかった。結果、信長は小谷城に攻め込み、久政・長政父子は無念の思いを抱きつつ、自害して果てたのである。戦後、長政の妻・お市と3人の娘は助かった。

 こうして浅井氏と朝倉氏は滅亡し、それぞれの領土は信長のものになった。翌天正2年(1574)1月、信長は越前と近江における戦勝を祝して、祝宴を催した。そこでは、列席した家臣が驚くようなことが行われた。

 『信長公記』によると、信長は宴席の酒の肴とすべく、朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨を薄濃にしたという。薄濃とは漆塗りを施した上に、金紛で装飾することである。インテリアならともかく、人間の頭蓋骨なので、驚くばかりである。

 信長は薄濃にした3人の頭蓋骨を白木の台に置くと、列席した家臣とともに宴席を楽しんだという。飲めや歌えやの宴会である。宴に参加した武将が、どのような感想を持ったのかは、特に記されていない。

 後世に成った二次史料の『浅井三代記』にも、義景と長政の頭蓋骨から肉をきれいに取り去って、漆で朱塗りにしたと書かれている。そして、天正2年(1574)1月に催された信長の宴席において、酒の肴として供されたという。

 一説によると、信長たちは薄濃にした頭蓋骨を盃代わりにして酒を飲んだというが、それは誤りである。あくまで酒の肴、つまり合戦時の話を盛り上げるための素材だったといえよう。さすがに、それは気が進まなかっただろう。

 信長が3人の首を薄濃にしたのは、単に残酷だったからだと言われている。一方で、首に対して敬意を払ったという説もあるが、ほかに例がないので首肯できない。薄濃の件は二次史料にしか書かれておらず、それが史実なのかを含め検討が必要だろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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