ルポ「ヘブロン――第二次インティファーダから20年――」(第4回)
【住民の75%が暴行体験者】
「活気あふれる地区でした。商業や製造業など全てがありました」
シュハダ通り沿いの住民、モフィード・アルシャラバーティは、今は住民以外のパレスチナ人が立ち入ることができないこの通りの、かつての繁栄ぶりをそう語る。
「ヘブロンで買い物をする時、人びとはここに来れば、野菜、果物、衣類、靴など、何でも揃いました。店は夜遅くまで開いていて、人や車の往来も活発でした。活気そのものです。この状態は、ユダヤ人がこの街にやってきて、宗教儀式をするようになった1979年頃まで続きました。当時、まだ入植地が一つもありませんでした」
しかし、イスラエル地区(H2)に組み込まれた現在のシュハダ通りは、パレスチナ人住民にとって、“占領下”の生活である。
自宅の屋上から、シュハダ通り近辺の建物を示しながら、この地区に暮らすパレスチナ人の現状をモフィードはこう説明する。
「あれはパレスチナ人の家ですが、道路の封鎖で家主でも家にたどり着けません。この家と屋上も占拠されています。下の家に通じる道はありません。これは医院や弁護士事務所などが入るビルですが、やはり行く道がないんです。誰もたどり着けません。あそこで通りが閉鎖されてからです。入植者たちが道路を封鎖しています。彼らは好きなように建物を建てることができますが、パレスチナ人は石の上に石を置くことも禁止です」
「イスラエル地区H2で暮らすパレスチナ人住民には、一人一人に番号が振られ、検問所を通るとき、通常のID(身分証明書)に加えて『番号』が必要です。この番号がないと 検問所を通れません。だから、パレスチナ人地区H1で暮らす他の家族、家族や親戚 友人たちは私たちに会いに来ることはできません。私たちは孤立させられているのです」
数年前、モフィードは、階上に台所や部屋の増築を計画した。イスラエル当局の許可を得るために、イスラエル当局に建設許可を申請した。PA(パレスチナ自治政府)の高官やヘブロン市役所の役人と共にイスラエル軍の地区司令官が調査にやってきた。司令官は、通り沿いはバルコニーにするように命じ、「問題ない。建てていい」と言った。
許可が下りたモフィードはセメントなど建築資材を家に搬入し始めました。すると突然、ユダヤ人入植地のリーダーがやってきて、阻止した。モフィードは「司令官の許可証があるんだ。資材を搬入させてくれ」と訴えたが、そのリーダーや警察は、「袋を手にしたら逮捕する」言った。モフィードは、その脅迫に屈せず、資材の搬入を続行した。その後に起こったことを彼はこう語る。
「警察やイスラエル民政局の役人がやって来て、近くの基地に連行されました。基地に入るとすぐ、大きな電動のドアが閉まり、同行した人たちから私の姿が見えなくなりました。
私は35人以上の兵士に囲まれました。兵士たちは軍服ではなく 運動着でした。休憩中だったのでしょう。彼らは突然、私に殴りかかりました。自分の身を守ろうとしましたが、その後どうなったのかわかりません。私に意識があったのは、ほんの数秒です」
「その後 6時間意識を失い、ヘブロン市の公立病院で目覚めました。初めは目が見えませんでした。MRI検査で脳に血腫が見つかり、脊椎が四箇所、折れていました。非常に危険な脊椎の外科手術でした。手術は16時間に及び、脊椎を固定するのに、14の金属ボルトと二つの金属柱を入れました。背中じゅうに金属が入っています」
「なぜ逮捕され、暴行を受けたのですか?」と問うと、モフィードは苦笑した。
「それは彼らに聞いてください。これが“占領”です。このように行動しなければ、占領を続けられないのです。私がパレスチナ人だから、圧力をかけて、この家から出て行かせようとしています。これは住民追放の政策です。殴ったり、妻や子供を逮捕したりすれば、私たちがこの地区から出て行くと考えているのです」
「私の家族全員が暴行を受けています。老若男女の区別ありません。地区の住民の70〜75%がイスラエル軍、または入植者による暴行を受けています。住民の10%が障害者です。私はイスラエル軍の暴行により72%の障害を持っています。弟は51%の障害を持っています。入植者の攻撃により弟は片目を失いました。数回の手術の結果、眼球を摘出し、ガラス製の義眼を入れたのです」
「この状況は住民にどんな心理的影響を与えていますか?」と訊くと、モフィードは笑ってこう答えた。
「パレスチナ自治政府の首相が同じことを尋ねました。私に『何が必要ですか?』と聞くので、私はただ一つ、精神科の病院が必要だと言いました。というのは、年齢や性別に関係なく、全ての人が衝撃や辱め 、様々なストレスにさらされているからです。子どもを含む多くの住民が最近、パレスチナ人住民がイスラエル兵に処刑される現場を目撃しました。この地域の人たちは皆、“死”や“血”を目にしているのです。精神科の病院を求めたのは、私自身も夜中に起きて叫ぶことがあるからです」
私は敢えて訊いた。
「自分や家族の命、安全を守るために、この地区を去ることは考えないのですか? 自分や家族の命、安全が、“家”よりも大切ではないですか?」
すると、モフィードは、きっぱりとこう言った。
「占領下に暮らす私たちパレスチナ人は、自分たちの祖国や土地に高い価値があると知っています。詩人ダルウィーシュが言ったように、『この土地にこそ、生きる価値はある』のです。
イスラエル当局の狙いは、私がこの状況にうんざりして、子どもや家族を心配してここを出て行くことです。もし私が出て行けば、近所の人たち皆が出て行くでしょう。
私の宗教、良心、土地が自分に『この家に留まりなさい』と言うのです。たとえ自分や家族が殺されようとも、私はこの家に留まります。自分と家族の安全をもたらすのは、“祖国の安全”です」
「あなたがそう言うのは、“占領”を経験していないからです。土地を奪われたことがないからです。他のパレスチナ人は命を落としています。理由なくイスラエルの刑務所に入れられ、何十もの死刑判決を言い渡されています。自身の権利を求めたからです。だから私はパレスチナ人として、抑圧や困難に屈することはできません。ここはパレスチナのヘブロン、シュハダ通り、私の家です。私には、闘い抵抗し、子どもたちに“忍耐”を教える権利があります。私はそう父から教わりました。父も様々な抑圧を受けていました。私は父から、 父は祖父から、代々この家を継承しています。だからこの土地と家を守らなければいけません。そうでなければ、イスラエルの望み通り、私たちは他のアラブの国に追い出されてしまいます」
「あなたたちパレスチナ人にとって“尊厳”とは何ですか?」
「“尊厳”は人生の全てです。自由に生きること、自立すること、独立した国に住み、尊重されること。将来を描ける指導部がいること、子供が自由に学校に行き、娘たちが自由に通りを歩けること、夜にドアの内側に板を張らずに安心して眠れること、これが“尊厳”です。祖国が侵されないこと、占領がなく、移動や食事、睡眠など、安心して日常を送れること――これがパレスチナ人の求める“尊厳”です」
【ヘブロンで活動するイスラエル人ボランティア】
モフィードの家の屋上で幼稚園が開かれている。イスラエル人地区H2内で暮らすパレスチナ人家族の幼児たちが集まってくる。教えているのは、テルアビブ(イスラエル最大の都市)からやってきたイスラエル人である。
この日のクラスはヨガ。20人ほどの幼児たちが輪になって座り、ヨガ教師のイスラエル人男性が英語で指導する。
「手を出して、ぎゅっと握りしめて!目を閉じて!」。
英語を解するスタッフがアラビア語に通訳して、子どもたちに伝える。
案内したモフィードが、私に言った。
「あなたがこの幼稚園に来たのは偶然ですが 伝えたい事があります。
私たちはイスラム教徒のアラブ人として、ユダヤ教徒に敵対しているわけではありません。子どもたちと遊んでいるのは テルアビブなどイスラエル国内から来ているユダヤ人です。平和活動家の彼らを私たちは家に迎え入れ、子どもたちと一緒に遊ばせています。私たちの間には何の問題もありません。共生は可能です。彼らも入植者らもユダヤ人ですが、考え方が違います。彼らは私たちの生きる権利を認めていますが、入植者は自分たち以外に生きる権利を認めません」
「テルアビブに来る前はインドにいました」とヨガ教師のイスラエル人、ジェイムス・アレキサンダーが語った。
「元々アメリカ人で オハイオ州生まれです。サンフランシスコで学びました。ここの状況もよく知らず、とてもナイーブでした。父がユダヤ人だったので、私はイスラエル市民になることができたのです」
「ヨルダン川西岸(以後「西岸」)で起きていることに注意も払わず、関わることもしませんでした。しかし、やがて起こっていることを見聞きし、イスラエルの平和団体であるNGO『検問所監視』と西岸の現場を訪ねるようになりました。車で西岸のイスラエル軍の検問所を周り、そこでの出来事を監察・記録しました。私はそこで全く知らなかった現実を目前にしたのです」
「毎週 『検問所監視』に出かけて、日曜日にテルアビブに戻り、ヨガ教室で教える。
靴にパレスチナの泥を残して戻り、とても悲しい現実を見た後に、幸せを装って暮らしました。全く違う二つの世界を行き来することに複雑な気持ちになり、何度も落ち込みました。
そんな生活を2年ほど体験して、この状況に自分の無力さを実感しました。『自分は何もできない』と。ヨルダン川西岸に通いながら、その後はテルアビブでの生活に集中する――2年間 その現実を見続け、そんな生活はもうできないとわかりました」
「2014年にあの恐ろしい戦争(ガザ攻撃)が起こりました。みんなが憎しみを抱いているのを私は目の当たりにしました。それが私の感情を殺してしまい、精神的に困難に陥りました。もう目を閉ざしていることはできない、起こっている現実を知ろうと思いました。
ヨガの教師として、この状況のために何か自分にできないかと考えました。パレスチナの村で教えている『検問所監視』の仲間に、何か私にできる機会はないかと尋ねました。すると彼女は、ヘブロンの幼稚園でヨガの教師を探していると 彼女が教えてくれました」
「なぜヘブロンなんですか?」と私はジェームスに訊いた。
「私がヘブロンを選んだわけではなく、ヘブロンが私を選んだのです。私はヘブロンについて何も知りませんでした。ここで教える機会があると知り、仲間と来たんです。そしてここで教え始め、この幼稚園の人たちと、ここでの体験がとても好きになりました。そして、ヘブロンがとても緊張状態にあることを初めて知りました。ここに来てすぐにそれを肌で感じます。同時に、人々がこの現実を見るべきだとわかるんです」
「あなたはイスラエル人としての“義務”を感じますか?」
「感じます。強い義務感です。そのために私はここに来たんですから。
私は米国で育ち 父親がユダヤ人だったために、ここへ来て市民権を得ることができました。つまり私はイスラエルで育っていないし、この国の教育を受けていない。兵役も体験していません。ラビン元首相の暗殺時もここにいなかったし、イスラエルの歴史も私の中にはありません。
私がイスラエルで育っていないということはとても重要な要素です。だから、このような状況に飛び込むことがより易しくて重要なことだったと思います」
「ユダヤ人として(ここの状況に)“痛み”を感じますか?」
「人間としての“痛み”です。ユダヤ人であることは私の主要なアイデンティティではありません。私は宗教的な人間ではなく いわゆる世俗派です。それでもユダヤ人としての責任を感じます。つまりこの現状をできる限り直視し、私が見たことを語り伝えるという責任です」
「もし、ここで起こっていること、この状況を無視し横に押しやるならば、イスラエルにとって、長期的に状況はもっと悪化するでしょう。私自身の人生で、これまで対処できず 逃げようとしてきたことも、最後は結局、私は向き合い、対処しなければならなくなりました。 だからここで何か大変なことが起こっているなら、それを直視しなければなりません。それが勇気と強さの源になります。
しかし逆に、それを意識の外に押しやり、正当化し、その状況を避けようとしたら、最終的には また長期的には自己崩壊につながっていきます。だから長期的な視点から、できる限り正直に向き合い、対処するべきなのです」
【注・写真は全て筆者撮影】