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小早川秀秋だけではなかった。関ヶ原合戦直後、土壇場で西軍から東軍へ寝返った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原。(写真:イメージマート)

 真田広之さん主演の「SHOGUN 将軍」は、「関ヶ原の戦い」前夜を舞台にしているという。こちら。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦では、開戦直後に小早川秀秋が裏切ったことで有名であるが、ほかにも3名の武将がいたので、紹介することにしよう。

◎赤座直保(?~1606)

 越前に本拠を置いた赤座直保の前半生は不明な点が多く、越前朝倉氏の家臣だったといわれている。朝倉氏の滅亡後、直保は信長に臣従し、その配下の桂田長俊(前波吉継)に仕えた。本能寺の変で信長が横死すると羽柴(豊臣)秀吉に仕え、その指示に従って各地を転戦した。

 関ヶ原合戦がはじまると、直保は西軍の大谷吉継に従い、北国口に出陣した。直保は関ヶ原(岐阜県関ケ原町)に着陣すると、開戦と同時に吉継の陣営に攻め込み、東軍の勝利に貢献した。ところが、直保は改易となり、所領は没収。慶長11年(1606)に越中国大門川で馬から落ち、溺死したという。

◎小川祐忠(1535~1601)

 近江に本拠を置いた小川祐忠は、織田信長に仕えていたが。本能寺の変後は紆余曲折を経て羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。文禄4年(1595)、祐忠は伊予今治(愛媛県今治市)に7万石を与えられた。

 関ヶ原合戦が勃発すると、祐忠は西軍の大谷吉継に従い、北国口に出陣したが、関ヶ原本戦では東軍に寝返った。その後の三成の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)攻めにも加わり、大いに軍功を挙げたが、戦後は改易となった。

 子の祐滋は、一柳直盛の嘆願もあって、豊後日田(大分県日田市)に2万石を与えられた。祐忠が不遇のまま近江高島(滋賀県高島市)で病死したのは、慶長6年(1601)のことである。

◎朽木元綱(1549~1632)

 近江朽木谷(滋賀県高島市)に本拠を置いた朽木元綱は、織田信長に仕えていたが、本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。秀吉のもとでは、伊勢や近江の蔵入地代官を務め、北条氏征伐にも出陣した。文禄4年(1595)、元綱は秀吉から近江高島(滋賀県高島市)に約9千2百石を与えられた。

 関ヶ原合戦が勃発すると、元網は西軍の大谷吉継に従い、北国口に出陣したが、関ヶ原本戦では東軍に属して吉継の陣営に攻め込んだ。戦後、元網は減封されたといわれているが、それは蔵入地を収公されただけとの説もある。元網が朽木谷で亡くなったのは、寛永9年(1632)のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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