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その時、岡田武史監督は「やりたくねえよ」と言った。『ジョホールバル1997 20年目の真実』

小野寺俊明スポーツPRコンサルタント/スポーツ企画工房 代表取締役
ジョホールバルのラーキンスタジアム

その場に身をおいた選手・選手が語るドキュメンタリー映画『ジョホールバル1997 20年目の真実』が、ヨコハマ・フットボール映画祭2018で上映される。「ジョホールバル」は日本サッカー界にとって忘れることのできない地名だ。

日本サッカーの聖地となったジョホールバルのラーキンスタジアム
日本サッカーの聖地となったジョホールバルのラーキンスタジアム

1997年11月16日、FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選の第3代表決定戦。イランと対戦し、延長後半13分、118分の激闘の末、日本がVゴールを決め、初めてワールドカップ本戦出場を決めた場所。それがマレーシアの「ジョホールバル」。恐らく、首都のクアラルンプールより日本人に知られている街だろう。

日本代表がジョホールバルでワールドカップ初出場を決める前、1994年アメリカ大会のアジア最終予選では、あまりにも有名な「ドーハの悲劇」で出場権を逃した。「ドーハ」の名前も、悪夢の舞台としてサッカーファンのみならず、日本人に刻み込まれた。

話を「ジョホールバル」に戻そう。フランス大会のアジア最終予選はグループA・Bの2組に分かれ、各組1位がワールドカップ出場、2位同士で第3代表を決め、敗者は当時オセアニア協会所属だったオーストラリアと、大陸間プレーオフを戦う事になっていた。第3代表決定戦はホーム&アウェイではなく、中立地での一発勝負。

日本はグループBで苦戦。4試合を消化して1勝2分1敗で、加茂周監督は解任。それまで監督経験のない岡田武史氏が監督に就いた。2002年にワールドカップが日本・韓国で共同開催されるだけに、1998年のフランス大会でワールドカップ初出場を決めることは至上命令。

想像もできない重圧が岡田監督にのしかかったことが想像できる。それがタイトルの「やりたくねえよ」の言葉。結局、日本代表はここから2勝2分と持ち直し、グループBを2位で終え、グループA・2位のイランと第3代表決定戦に挑んだ。

あれから20年スタジアムも様変わりした
あれから20年スタジアムも様変わりした

『ジョホールバル1997 20年目の真実』の映画監督を努めた植田朝日氏は「日本がワールドカップ初出場を決めてから20年。ジョホールバルを知らない世代も日本代表戦や、Jリーグのスタジアムにも増えてきたので、そういった人たちに見てもらいたいし、記録として残しておくべきだと思って製作した」と背景を語る。

あれから20年が経過した。当時は「3.5」枠だったアジアの出場枠も、今は「4.5」枠。2026年大会からは出場国が48カ国に増えることが発表されており、アジアは「8.5」までに拡大すると予想されている。もはや、日本が出場するのが当たり前となったが、この日まで日本にとってワールドカップは、夢のまた夢の舞台だった。

映画のインタビューに答えたのは、当時の監督だった岡田武史氏、キャプテンの井原正巳氏、決勝Vゴールを決めた岡野雅行氏、この試合で背番号10をつけた名波浩氏、最終予選中に日本国籍を取得し、3ゴールを決め救世主となった呂比須ワグナー氏、そして韓国戦で伝説のループシュートを決めた山口素弘氏の6名。

この場所から岡野雅行がVゴールを決めた
この場所から岡野雅行がVゴールを決めた

植田監督は「相当突っ込んだ話もしたし、初めて聞く話もあった」と話す。日本中を熱狂させた「ジョホールバルの歓喜」。日曜深夜にも関わらず、地上波の平均視聴率は47.9%を記録。日本中が異常な熱狂に包まれる中、その中心にいた人たちが語る日本代表。「その瞬間に立ち会った人も、知らない世代も見てほしい」と植田監督は話す。

取材時にはまだ、編集作業中だったので、「上映時間を試合時間と同じ118分にしたい」と植田監督は語っていたが、果たしてその通りになったのかも気になるところだ。

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スポーツPRコンサルタント/スポーツ企画工房 代表取締役

「スポーツPRコンサルタント」「スポーツWebサイトプロデュース」「スポーツライティング」を行う株式会社スポーツ企画工房代表取締役。スポーツ団体や選手、テレビ局のスポーツサイトを数多く立ち上げたほか、スポーツ団体やチームの運営・広報、SNSやWeb戦略のアドバイザーを務める。また、プロバスケットボール「bjリーグ」や卓球「Tリーグ」の設立に関わった。2006年から11年までは中央大学商学部客員講師としてスポーツビジネスを教えた。

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