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15年前の11月5日に開幕。日本初のプロバスケットボール「bjリーグ」が残したもの

小野寺俊明スポーツPRコンサルタント/スポーツ企画工房 代表取締役
bjリーグ公式ボール。持つのは河内コミッショナー (C)bj-league

今から15年前の2005年11月5日。日本初のプロバスケットボール「bjリーグ」が開幕した。

それは6チームでの開幕。のちに「オリジナル6」と呼ばれる「仙台89ERS」「埼玉ブロンコス」「東京アパッチ」「新潟アルビレックス」「大阪エヴェッサ」「大分ヒートデビルズ」が参加して始まった。

既存の仕組みから独立して旗揚げされた「bjリーグ」は「反乱軍」とみなされた。協会の意向に沿わず、独立したプロリーグを立ち上げたのは、恐らくbjリーグが最初で最後になるだろう。

そこに至る経緯を簡単に話せば、バスケットボールの「プロ化」を約束した協会が、一向にプロ化を実行せず、しびれを切らした「新潟アルビレックス」と「埼玉ブロンコス」が、旧JBL(実業団リーグ)からの脱退を宣言。2005年からのプロリーグ設立を発表したことに始まる。

設立の経緯から、当然のようにbjリーグは協会からは目の敵にされた。「bjリーグに関わることは許さない」という内容の文章が出されたとも聞く。bjリーグに参加した選手は日本代表に選ばれることはなく(当時は実力的にも選ばれるレベルでなかったが)、審判や地方協会も表立ってbjリーグに協力ができない時期が続いた。

それでもbjリーグは、「bjリーグ宣言」で「3つの理念」「7つのビジョン」「20の実践」を掲げ、プロバスケットボールリーグとしての歩みを進めていく。3つの理念に掲げた、世界に通用する選手を目指す「プロフェッショナル」、競技に見る楽しさを加えた「スポーツ・エンタテインメント」、国際性と地域性を見据えた「グローカル」などは今にも通じる。

今では当たり前となっているが、大型ビジョンが天井から吊るされたり、アリーナのフロアや会場がデコレーションされ、さらにプレー中にMCが応援を煽ったり、音楽を使うことはそれまでなく、日本ではbjリーグが始めたことだった。

また、特筆すべきは戦力均衡を図るため、「トライアウト」「ドラフト制」「サラリーキャップ」を採用したことだろう。正直なところ、当時は有望選手が実業団に行くため、ドラフトはあまり機能していなかったが、トライアウトでプロを目指す選手に機会を与え、サラリーキャップは地方のチームでも優勝争いができる土壌を生んだ。

あるシーズンの某チームは年間運営予算が1億円ほどでも、「bjリーグファイナル」に出場できたぐらいだ。その「bjリーグファイナル」はレギュラーシーズンで上位に入り、プレイオフトーナメントを勝ち上がった4チームが出場できる。毎年5月に行われ、その会場が「有明コロシアム」だったことから、ブースターの間では、「甲子園に行く」と同じように「有明に行く」が合言葉だった。

有明コロシアムに1万人の観客を呼んだ「bjリーグファイナル」。奥が「クレージーピンク」と呼ばれた秋田のブースター (C)bj-league
有明コロシアムに1万人の観客を呼んだ「bjリーグファイナル」。奥が「クレージーピンク」と呼ばれた秋田のブースター (C)bj-league

その「有明」では琉球ゴールデンキングスや秋田ノーザンハピネッツなど、地方のチームが輝いた。沖縄ブースターの指笛が鳴り、三線(さんしん)の音色が響く。そして、「クレージーピンク」と呼ばれた秋田のブースターが、「秋田県民歌」を大声で涙を流して歌う。それも東京で…。地方のチームが大都市のチームより強い、bjリーグは「スポーツの地方分権」を達成していたとも言える。

さらに、昇格・降格がない「単一リーグ」としたことで、新規参入チームも全て「1部リーグ」で参戦できるのは大きな魅力だった。これによりbjリーグは2005-2006シーズンの6チームから、最後のシーズンとなった2015-2016シーズンには47都道府県の半分、24チームまで拡大した。

ただ、これも正直に言えば、チームの中には経営がうまくいかず、チームの消滅や運営会社の交代もあり、全てが順風満帆だったわけではない。それでも現在、プロバスケットボール全47チームのうち、ルーツがbjリーグにあるのは23チームと半数を占めるのだ。

bjリーグが開幕した2005年当時、明らかに日本ではマイナースポーツだった男子バスケットボール。それが今ではオリンピック出場を勝ち取り、プロリーグとして野球やサッカーに次ぐ、3番目のスポーツリーグとして認知されている。そのスタートは、2005年11月5日にあったと断言してよいだろう。

低迷する日本バスケットボールの未来を憂い、「反逆者」と呼ばれることも甘んじて受け入れた創業メンバー。そして、その理念に賛同し、bjリーグに参加した選手、スタッフ、関係者。

当時、bjリーグの河内敏光コミッショナーは有明コロシアムで行われた、bjリーグ開幕戦となる「東京アパッチvs.新潟アルビレックス」戦の挨拶でこう言った。

「『バスケがしたい』。その想いで我々はこの日のために準備をしてまいりました。多くの方々のご協力があり、今日ここにbjリーグをスタートさせることができます。選手、関係者、そして皆様ブースターが一緒になって『バスケをしましょう』。2005年11月5日、ここにbjリーグの開幕を宣言します!」

それから15年。開幕戦のコートに立った選手で、今も現役の選手はほんの僅かとなった。歴史から、そして記憶からも消えようとしている日本初のプロバスケットボール「bjリーグ」。この原稿はbjリーグに関わった1人として送る、レクイエムでもある。

◆参考文献

・BUZZER BEATER 日本プロバスケットボール「bjリーグ」11年の軌跡

・意地を通せば夢は叶う!-bjリーグの奇跡

2016年5月15日、bjリーグ最後の試合。優勝した沖縄がネットカットしたリング (C)bj-league
2016年5月15日、bjリーグ最後の試合。優勝した沖縄がネットカットしたリング (C)bj-league
スポーツPRコンサルタント/スポーツ企画工房 代表取締役

「スポーツPRコンサルタント」「スポーツWebサイトプロデュース」「スポーツライティング」を行う株式会社スポーツ企画工房代表取締役。スポーツ団体や選手、テレビ局のスポーツサイトを数多く立ち上げたほか、スポーツ団体やチームの運営・広報、SNSやWeb戦略のアドバイザーを務める。また、プロバスケットボール「bjリーグ」や卓球「Tリーグ」の設立に関わった。2006年から11年までは中央大学商学部客員講師としてスポーツビジネスを教えた。

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