樋口尚文の千夜千本 第24夜「バードマン」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)
ヒア・アンド・ゼアの彷徨がもたらす予期せぬ奇跡
映画の仕上げ具合というのははなはだ難しくて、作り手が犀利に虚構としての辻褄や均整にこだわったからといっていきいきとした作品になるとは限らないし、かといって何でもありの野放しではしまりがなくなる。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの作品がこれまでもいずれも好感に満ちていたのは、その物語の構築から実際の演技や撮影のタッチに至るまで、独特の「虚実皮膜」感(古いコトバだが)を漂わせていたからではないかと思う。
出世作『アモーレス・ぺロス』から『21グラム』『バベル』に至るまで、俳優たちは常にドラマのような、ドキュメンタリーのようないくぶん危うい空気のなかで演技を求められてきた。一方、彼らを動かす虚構のドラマもしっかりした因果律の縛りがあるような無いような、微妙な空隙を縫うようなムードである(9.11テロをめぐるオムニバス映画『11'09''01/セプテンバー11』でのイニャリトゥは、この「虚実」の敷居を過酷に突き詰めるようであったが)。そんな開かれた/余地のある/代替可能な空気のなかで、イニャリトゥが好むのは世界のヒア・アンド・ゼアが同時に存在する感じ、その交わるような交わらないような世界の場所と人びとの交錯する感じ、言わばシンクロニシティのそわそわ感である。その世界の混沌とそわそわのなかで、ほぼ偶然に近いぐらいの確率で人の思い(という甚だ心もとないもの)が託されていく、そういうぎりぎりのドラマ(のかそけき成立点)を見つめようとしてきたのではないかな、と思う。
さてさて『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』だが、そんな根っこは極めてデリケートなイニャリトゥが、演出のタッチも物語も、ぐんとわかりやすいかたちで存分に弾けてみせた野心作である。かつてヒーロー映画『バードマン』の主役を演じていた主人公リーガンが『バットマン』のマイケル・キートンで、以後20年あまり当たり役に恵まれず、60代のあがきでなんとブロードウェイで自ら主演、演出の公演を張って、なんとか俳優としての実力を認めてもらおうとする・・・というのは、またまたイニャリトゥ印の「虚実皮膜」の物語だが、ここで起死回生の演目としてリーガンが選んでいるのがレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」だというのが泣かせる。村上春樹の神通力でわが国に本格的に紹介されたレイモンド・カーヴァーは一時流行ったけれども、リーガンが俳優を志したのもレイモンド・カーヴァーの影響なのだそうだ。
そんなリーガンが舞台の内外を往還しながらややこしい俳優仲間や癖のある肉親たちと七転八倒するさまをなんとヒッチコックの『ロープ』方式で、全篇ワンカットに見えるようにつないでいる。これはイニャリトゥ同様メキシコ出身のカメラマン、エマニュエル・ルベツキが、『ゼロ・グラビティ』の時同様、縦横無尽に動く魔術的なカメラで撮った素材をうまい具合にデジタル処理しているわけだが、この強引な縫合によってそれらがただの風景の変化ではなく、主人公の精神のヒア・アンド・ゼアとして再構築されることとなった(ただバラバラに撮ってつないだら、ただの景色の違いでしかないわけで、監督がこの困難なワンカットに執着するのは、あわただしい動きに満ちた本作をリーガンの内的宇宙に見せたかったからだろう)。
そして、この文字通り大勢の観客に環視されている舞台上から劇場を出た孤独な酒場まで、リーガンの小宇宙に去来する人物たちのいちいちがちょっとした悪夢のようで面白すぎる。とりわけ、一時は演技派としてやりすぎなくらいの熱演を披歴しまくっていたエドワード・ノートンが演ずる鼻持ちならぬ”メソッドアクター”ぶりはこれまたエドワード・ノートン自身との「虚実皮膜」感を匂わせつつ、本当にうんざりするような映画内リアリティを発散させている(この道場破り的な怪優がいつも素っ裸で自己陶酔しているというのもケッ作だ)。一方では、ナオミ・ワッツが演ずるなかなか脚光を浴びることのない女優やエマ・ストーン扮する薬物依存から解放されたばかりの娘など、印象的な人物たちが目白押しで、マイケル・キートンを希望と落胆の両極に振り回す。
しかしながら、こうして名うての名優たちや凝りに凝った技術を動員しながらイニャリトゥが描こうとしているのが、ほんの手のひらサイズの出来事であって、実は「虚実皮膜」の役柄を受けて立ったリーガンことマイケル・キートンの数日間の心のさざなみを見つめているだけ、というのがとてもいい。基本的にシビアなまなざしのイニャリトゥにして、幕切れも文字通り舞い上がるような小味なオチで、ブラックな風味に彩られたオトナの童話みたいな作品になった。マイケル・キートンは、ロン・ハワード監督の『ラブINニューヨーク』や『ガンホー』での役柄が大好きだったので、その後でティム・バートンが『ビートルジュース』や『バットマン』に起用した時も、自分のなかでは実力派の俳優が遊びごころで演っているという前向きな感じでしか観ていなかった。
だから、マイケル・キートンに限って言えば本作のようにヒーロー映画のキワモノ俳優視されたことがあるとは到底思えないのだが、しかしほぼ同齢のクリストファー・リーヴは隠れた名作『ある日どこかで』やそれこそブロードウェイの人気戯曲の映画化『デストラップ・死の罠』などで芸域を広げようとしたが、終生『スーパーマン』の呪縛は解けない感じであったので、『バードマン』はさしずめこちらに近いのかなと思った。そういう意味では、本作のエドワード・ノートンは『インクレディブル・ハルク』を嬉々と演じていたし、本作とは関係ないがハル・ベリーも『X-メン』を経てアカデミー賞を貰ったし、そういうヒーロー役者をめぐる偏見ももはや隔世の感がある(「仮面ライダー」が売れっ子男優への華麗なる第一歩とみなされているわが国にあってはなおさらだ)。そういえば、本作のエマ・ストーンも『アメイジング・スパイダーマン』のヒロインだったわけで、本作のイニャリトゥのキャスティングはまことに狙いに狙った遊びっぷりである。