「PTAをやったら楽しかった」はなぜ炎上? 事実でも反感を買いやすい理由
先週、あるテレビ番組で、PTAの“免除の儀式”が取り上げられ、筆者も少々出演して解説を行った。
“免除の儀式”とは、4月の保護者会でPTAの委員決めをする際に、引き受けられない人が一人ずつ「できない理由」を言い、他の保護者がみんな顔を伏せたまま、その理由を認めるかどうか挙手で判定する、というもの。先月、全国紙でも取り上げられたので知っている人もいると思うが、いま初めて聞いてドン引きした人もいるだろう。
これは以前から、関西方面でときどき聞くやり方だ。ほかの地域でも「できない理由」をみんなの前で言わせたり、紙に書いて役員に提出させたりすることはよくあるが(それも十分酷い話なのだが)、「その理由を認めるかどうかを、みんなに裁かせる」というやり方は、筆者が知る限り他地域では聞かない。
どんなやり方にせよ、PTA活動を「できない理由」を言う・言わせるのは間違っている、ということは、これまで繰り返し指摘してきた通りだ。PTAはあくまで任意で加入し、任意で参加するものであり、「やらなければいけないもの」でも「義務」でもない。一般の団体と同様、できない理由をいちいち明かす必要は本来ない。
同番組ではこの“免除の儀式”をとっかかりに、PTAのさまざまな問題を掘り下げていたのだが、そのなかで特に反響を呼んだのが、ある男性アナウンサーのコメントだった。
6年生までに委員をやっていないと“卒対”(卒業式で配る祝い菓子や記念品の手配、卒業パーティを企画したりする係)の担当にされるので、それを避けようと早めに(特に4・5年生)委員をやりたがる人も多い、という話が出た際に、「妻が卒対をやって、とても楽しかったと言っていた。毛嫌いされ過ぎている」と発言。これに対し、ネット上で賛否が噴出したのだ。
筆者自身は、この意見には賛成だった。卒対はたしかに面倒なこともいろいろあったが、メンバーに恵まれたおかげもあり、楽しいことも意外と多かった。
想像だけで卒対を嫌い、且つ自分がやりたくないことを他人にやらせることしか考えない人には、正直なところ嫌悪感がある。そんな策をめぐらすよりは、卒対をやるか、あるいはPTAをすっぱり退会して現行のやり方の見直しを促すほうが、よほどみんなのためになるだろう。
だが、ネット上ではこの発言が、話の流れ(6年の卒対が嫌われ過ぎて他学年で委員に手を挙げる人が増えている)とは切り離して拡散されたため、「“楽しかった”と言うことで“免除の儀式”などPTAの問題点を矮小化している」と受け取られてしまったようだ。
*選べないのに「楽しい」と言われても
今回の「楽しかった」発言への批判は、筆者にとってひとごとではなかった。じつは筆者も「卒対をやったら実際楽しかった。実物以上に恐れられすぎている」という話を、つい最近書いていたからだ(週刊誌AERA 4/8号)。
「PTA活動をやって楽しかった」という話をするときは、いつもかなり気を遣う。なぜなら、強制PTAがまだ主流の現状でそれを言うと、「楽しかったから、あなたもやりなさい」という意味で伝わりやすいうえ、現状のPTAのさまざまな問題点を容認するメッセージと受け取られがちだからだ。
強制のない一般的な団体であれば、そんな心配は要らない。「楽しかったよ」といえば、「そうですか、楽しくてよかったね」と受け取ってもらえる。だが、現状の多くのPTAには「全員必ずやらねばならない」とする強い圧力があるため、「楽しかった」と聞かされた人はますます「やらねばならない」という押し付けを感じやすい。
いま、PTAは強制から任意へと移行する過渡期にある。完全に任意――やる・やらないを個々の保護者や教職員が無理なく選べる状況――にもうなっているなら、「楽しかった」とアピールして会員を募集することは健全だし、むしろ必要なことだが、現状まだその段階に至っていないPTAが多いため、事実であっても「楽しかった」とは言いづらいところがあるのだ。
早くすべてのPTAが強制を手放して、「本当はやりたくないのに、いやいややる人」が一人もいなくなれば、「やったら楽しかった」も安心して言えるようになるだろう。
その日は、いつ来るのか。