【光る君へ】愛し合った一条天皇と藤原定子。誕生した3人の子供のその後とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、東京都知事選の速報で中止になった。そこで、ドラマの前半部分で、注目された場面を取り上げて、詳しく解説することにしよう。取り上げるのは、一条天皇と藤原定子の間に誕生した3人の子供のその後である。
◎脩子内親王(997~1049)
長徳2年(997)12月16日、脩子内親王が誕生した。出産前の定子は、長徳の変で強い精神的ショックを受けていたこともあり、通常の妊娠期間を約2ヵ月も超えた(約12ヵ月)という。
一条天皇は内親王を宮中で育て、大変かわいがったといわれている。ところが、長保2年(1000)に定子が、寛弘8年(1011)に一条天皇が相次いで亡くなった。そこで、内親王はおじの隆家を頼り、その後は三条宮に移ったのである。
治安4年(1024)、内親王は落飾し、ついに結婚することはなかった。琴や琵琶の演奏を好み、書に優れた教養ある女性でもあった。永承4年(1049)2月7日、内親王は亡くなったが、人々は成仏が間違いないと述べたという。
◎敦康親王(999~1019)
長保元年(999)11月7日、敦康親王が誕生した。翌年、定子が没したものの、敦康親王は親王宣下を受けた。母を亡くした親王は、彰子(藤原道長の娘で一条天皇の中宮)に養育されたのである。
寛弘5年(1008)、一条天皇と彰子との間に敦成親王(のちの後一条天皇)が産まれた。3年後、一条天皇は敦康親王を皇太子に据えようとしたが、それは断念せざるを得なくなった。
当時、道長の権力が強大だったので、敦成親王を立太子せざるを得なかったのである。中宮の第一皇子が皇太子にならないのは異例のことで、人々は敦康親王に同情の念を抱いたといわれている。
以後の敦康親王は文芸に興じるなどし、政治への道をすっかり断念したようである。寛仁2年(1018)12月17日、敦康親王は急病により死を悟り、出家するとそのまま亡くなったのである。
◎媄子内親王(1000~1008)
長保2年(1000)12月15日、媄子内親王は誕生した。しかし、その翌日に母の定子が亡くなるという不幸に見舞われたのである。翌年には、内親王宣下を受け、定子の妹に養育された。
寛弘5年(1008)4月、媄子内親王は病気になり、一時は持ち直したが、その翌月には亡くなったのである。まだ、数え歳で9歳だった。一条天皇の嘆きぶりは、とても尋常なものではなかったという。