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「マンション隣人はバイオリニスト」裁判、たかが音か重要事項か、高裁判断を注視

橋本典久騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授
(写真:イメージマート)

訴訟の概要

 注目すべき裁判の判決言い渡しが東京地裁であった。報道によれば、ある家族が札幌市の分譲マンションを購入したが、隣の住人がバイオリニストだった。この家族は転勤を繰り返してきたが、その先々で騒音トラブルに巻き込まれたため、終の棲家として購入するマンションでは、その心配がないように最上階の角部屋を選び、かつ販売業者に隣からの「音の懸念」がないかを確認したが、「隣の人は普通の勤務先に勤務している一人暮らしの女性」との説明を受け、安心して購入を決め入居した。

 その後、隣人の女性が挨拶に訪れ、職業がプロのバイオリニストであり、自宅でも練習やレッスンをすることを告げられ、これでは話が違うとして、マンションの売買代金5666万円の返還などを求めたが、販売業者側がこれに応じなかったため訴訟に踏み切った。しかし、判決では原告の訴えを全面的に退け、「隣室の居住予定者が楽器を演奏するような者か」という質問を受けていないのであるから、業者が回答する義務を負っていたとはいえず、契約解除や賠償請求は認められないとした。原告側はこれを不服として控訴し、審議は高裁へ移ることとなった。

 2020年7月の提訴時の報道を見て、興味深い事例として判決を待っていたが、今年6月の判決は意外なものであった。当然、原告勝訴の判決が出るものと思っていたが、結果は逆であった。判決理由については、報道などでその概要が示されているが、判決書きなどを見ているわけではないので詳細は分からない。これまで、裁判の記事を書く時は、判決書きは勿論のこと、訴状や準備書面、証言記録などの裁判資料の全てを裁判所で閲覧し、間違いのないように気を付けてきた(弊著「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の詳細事例集 -裁判資料調査に基づく代表的13件の詳細事例集-(Amazon刊)」など)。今回は、裁判資料の閲覧等は特に行っていないので、あくまで騒音の問題に限って、騒音トラブル研究者の立場から意見を述べたい。

隣人がバイオリニストだと騒音被害が発生するか

 裁判の争点である、業者側に重要事項の説明義務違反があったかどうかについては法律的な解釈になるのでここでは言及しないが、まず、室内でバイオリンを弾けば隣家に音がどれくらい響きそうかについて説明する。

 バイオリンの演奏音の周波数は、一番音の低い第4弦の開放弦がGであるので周波数で言えば196 Hzとなる。高い音は、その約4オクターブ上となるので3200 Hz程度となり、これらの中央の音(G)は784 Hzとなる。

 鉄筋コンクリート造のマンションの壁厚が20 cmだと仮定すると、その遮音性能は、784 Hzの場合の質量則による透過損失の計算値は63 dBとなるが、実際はこれよりやや小さくなり55 dB~60 dBと考えられる。バイオリンの音は空気音であるため、壁の遮音性能はこの透過損失での音の伝搬量で決まるため、プロのバイオリニストがかなり大きな音で弾いても、隣家では殆ど聞こえない程度となる。壁に耳を付ければ小さく音が聞こえる程度であり、通常の生活では殆ど気にならないと言える。ただし、ベランダ側や廊下側の窓のある部屋で練習などをすれば、そこからの音がベランダや廊下を通して回り込んでくるため遮音性能も落ち、たとえ窓を閉めていても隣家の室内で音が聞こえる可能性はある。また逆に、室内に防音室をつくり、その中でのみ演奏や練習をするということであれば、防音室と鉄筋コンクリート壁の2重の遮音となり、隣家に対する音の影響は全くなくなると考えてよい。以上より、隣家への配慮さえあれば、バイオリンの音が実害となることは殆どないといえる。

 ちなみに、ピアノの場合は話は別である、ピアノは低音から高音まで音域が広く、音量もバイオリンなどより遥かに大きくなるとともに、固体音としてピアノの脚からの振動が鉄筋コンクリートの床に伝わって響くので、マンションなどで何の対策もせずにピアノを弾けば、間違いなしに隣家や上下階にかなりの大きさで音が伝わることになる。防音室内に設置した場合でも音の伝わる可能性は残るので、十分な注意が必要となる。

 また、同じ弦楽器でもチェロは要注意である。バイオリンより音域が低いため遮音上不利となり、エンドピンから弦の振動が床に伝わるため、固体音の要素が大きくなる。以前、コンサートホールでチェロの音響放射を測定した結果では、ステージ板からの放射音がかなり大きなことが分かり、ステージ板の縦張りや横張りで違いがみられる事なども分かっている。マンションで、何の対策もしないでチェロを弾くことは、騒音苦情の原因となる可能性が高いと考えるべきである。

(参考資料:ショパン12月号別冊No.107、「防音まるわかりガイド」、ハンナ、令和元年11月、など)

騒音苦情の発生過程には2種類ある

 バイオリンでは、実害が出る可能性が低いことは上記で述べた通りであるが、では、騒音トラブルに関して何も問題がないのかと言えば、そうではない。その理由は、既往記事(救急車のサイレンに対する騒音苦情が増加中、その背景にあるものとは?)で述べたように、騒音の苦情には2種類あるためである。下記の図は既往記事で示したものであるが、<通常の騒音苦情>の場合には迷惑行為があって苦情が発生する。この事例で言えば、マンションの部屋でバイオリンを演奏するその音が、隣の住戸の部屋に伝わり、相手にフラストレーションを与える状況であるが、これについては既に述べたようにバイオリンによる実害はないので成立しない。

図は著者作成
図は著者作成

 問題なのは、下側の図に示されているように、<フラストレーションによる騒音苦情>についてである。現在の騒音問題の多くは、このフラストレーションによる騒音苦情の要素を持っており、その騒音トラブルが社会に蔓延している。<通常の騒音苦情>だけが騒音トラブルの形ではないことを理解する必要があるが、今回の場合、そのフラストレーションの状況を作り出したのがマンション販売業者側の説明である。「隣の人は普通の勤務先に勤務している一人暮らしの女性」との説明を受け、安心して購入を決めたが、実はプロのバイオリニストだったということは、納得のできないフラストレーションを生む結果となった。バイオリンの実害の可能性は低いといえども、仮に、窓際の部屋などで演奏をすればバイオリンの音が響いてくる可能性もゼロではない。それがたとえ美しい音楽だったとしても、フラストレーションを感じてしまっている状況では、間違いなしに被害者意識が生じ、トラブルに繋がることになる。何より、いつそのような状況に陥るのか、いつ隣からバイオリンの音が聞こえてくるのか、という不安を抱えてしまったことは心理的な大きな負担となるであろう。

 裁判所の判断は、社会一般の考え方や感じ方を反映したものであるとともに、その判決の社会的波及効果を考慮したものとなる。「たかが音」、ましてや音楽が多少聞こえても、それを5千万円以上もするマンションの契約解除の理由とすることは妥当ではないとの判断であり、仮に原告の請求を認めれば、同様の問題にも波及して少なからず社会的混乱を引き起こす懸念もある。仕方のない判断なのかも知れない。

 しかし、こうは考えられないであろうか。言葉を変えれば、物事の印象も大きく変わる。原告は、これまでの近隣との騒音トラブルを多く経験し、その結果、「騒音アレルギー」の体質になってしまった。終の棲家ではアレルギーの心配なく安心して暮らしたいと思い、その確認をしたところ、アレルギーの原因になるものはありませんと説明を受けて入居した。その結果、アレルギーと無縁で暮らすどころか、アレルギーの不安とともに暮らすことになってしまった。これでも実害はなく、問題なしと考えてよいものだろうか。

 大変に難しい問題であり、高裁の判断を興味深く待ちたいと思う。 

騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授

福井県生まれ。東京工業大学・建築学科卒業。東京大学より博士(工学)。建設会社技術研究所勤務の後、八戸工業大学大学院教授を経て、八戸工業大学名誉教授。現在は、騒音問題総合研究所代表。1級建築士、環境計量士の資格を有す。元民事調停委員。専門は音環境工学、特に騒音トラブル、建築音響、騒音振動、環境心理。著書に、「2階で子どもを走らせるな!」(光文社新書)、「苦情社会の騒音トラブル学」(新曜社)、「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の事例分析」(Amazon)他多数。日本建築学会・学会賞、著作賞、日本音響学会・技術開発賞、等受賞。我が国での近隣トラブル解決センター設立を目指して活動中。

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