【「麒麟がくる」コラム】丹波平定後、明智光秀はいかにして国内の城郭を整備したのか
■城郭を整備した明智光秀
丹波を平定した明智光秀は、織田信長からそのまま丹波国一国を与えられた。光秀は近江坂本(滋賀県大津市)に加えて、丹波を領することになったのだ。光秀は丹波国内の城郭をいかにして整備し、支配の拠点にしたのだろうか。
■丹波支配の拠点・亀山城
光秀が丹波支配の拠点に定めたのは、亀山城(京都府亀岡市)である。そもそも亀山城は丹波攻略の拠点として、天正4・5年(1576・77)頃に保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれた。亀山城は、交通の要衝地に位置していたのである。
光秀は小畠氏らに宛てて、「亀山惣堀普請」を行うように命令した(「小畠文書」)。それは、天正5年(1577)1月頃と考えられている。ただ残念ながら、年代については不明な点が多い。
当時の史料が乏しく亀山城の全容は不明である。天正8年(1580)に丹波支配を任された光秀は、ここに城下町を築いたという。翌天正9年(1581)4月には、さらに亀山城の普請が行われた状況がうかがえる(「片山宣家氏所蔵文書」)。
こうして亀山城は、徐々に補強を重ねていった。亀山城は京都にも近く、丹後、摂津、播磨へ通じる交通の要衝地だったが、丹波は非常に広く、各所に拠点となる城を必要とした。皮肉なことに、亀山城は本能寺の変の舞台の一つになったのだ。
■その他の諸城
丹波北部の拠点としたのが福知山城(京都府福知山市)で、城主は家臣の明智秀満が務めた。福知山城は福知山盆地の丘陵地帯に築城され、由良川が天然の堀になるなど要害の地だった。ここで期待されたのは、丹後、但馬方面の押さえということだろう。
黒井城(兵庫県丹波市)は赤井氏の居城であり、標高356mの頂上に本城が築かれた。周囲は、約8kmに及ぶ猪口山全体が巨大な要塞と化していた。今では、竹田城(兵庫県朝来市)とならぶ「天空の城」として知られるようになった。
山中には曲輪や土塁、空堀など遺構がそのまま今も残っており、戦国時代の典型的な山城跡で有名だ。現在の遺構は、赤井氏の時代に大幅に改修されたものと推測される。
黒井城には、但馬、播磨方面の押さえとして機能が期待されたと考えられる。城主を務めたのは、光秀の家臣・斎藤利三である。ただ、広範な丹波を支配するには、この3つの城では不足していたようだ。
天正7年(1579)10月には、柏原城(兵庫県丹波市)が支城として確認できる(『兼見卿記』)。柏原城は八幡城とも言い、現在の柏原八幡神社に所在した。城主は不明。柏原城は、黒井城とさほど距離が離れていない。
天正9年(1581)8月には、周山城(京都市右京区)が確認できる(『宗及他会記』)。周山城は京都市中に通じる、周山街道沿いに築かれた。
周山城は交通の要衝地で、家臣の明智光忠が城主を務めたといわれている。主郭は総石垣作りで、天守台が設けられている。東西700m、南北500mというかなり大規模な城郭だった。
なお、『老人雑話』という二次史料には、光秀が居城の亀山城に続く北愛宕山に城を築き、周山と号したと記す。これが、先述した周山城だ。光秀は自身を周の武王になぞらえ、信長を殷紂に比した。これは、周武王が宿敵の殷紂を滅ぼし、天下を取った歴史にちなんだものである。
そして、あるとき羽柴(豊臣)秀吉が光秀に対して、「おぬしは周山に夜に腐心して謀反を企てていると人々が言っているが」と尋ねると、光秀は一笑して否定したというのである。これは光秀野望説の根拠とされるが、単なる逸話にすぎず、まったく信用できない。
光秀が落城させた宇津城(京都市右京区)では普請を行った記録があり(『兼見卿記』)、ほかにもいくつかの城を整備した可能性がある。こうして光秀は、丹波の諸城を充実させた。
■城郭の破却命令
一方、信長の方針により、光秀に従った丹波の国衆に対しては、城郭の破却を命じた。将来、城郭が抵抗の拠点になることも想定されたからだろう。
山家(京都府綾部市)の和久氏は城郭破却の命に従わず、城を寺と偽って破壊しなかったため、光秀から成敗されている(「御霊神社文書」)。城の破却命令は、かなり徹底されたようである。
こうして、光秀は城郭を整備することにより、丹波支配を進めたのである。