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【戦国こぼれ話】関東管領・上杉顕定が上州一揆を率いて、越後に侵攻した理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上杉顕定が上州一揆を率いて、越後に侵攻した。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 「秋の米沢上杉まつり・なせばなる秋まつり」が開催されるという。上杉氏の源流をたどると、関東管領を務める名門だった。今回は、上杉顕定が上州一揆を率いて、越後に侵攻した理由を考えてみよう。

■上野国守護だった上杉氏

 室町幕府が成立した南北朝期以降、上野国の守護職は上杉氏がほぼ独占していた。それだけではなく、上杉氏は関東管領として鎌倉公方を支え、さらに武蔵・伊豆・越後の守護職を兼ねていた。

 このような体制下で上杉氏を支えたのが、上野国に広範に存在した武士団である。彼らは協力して結集し、「上州一揆」と称された。この場合の一揆とは、小領主たちの同志的な集団のことを意味する。

■上杉家の家督問題

 ところで、問題となったのが越後国の情勢である。明応3年(1494)、越後守護の上杉房定が亡くなると、後継者となったのが子の房能ふさよし)だった。

 房能には、定昌、顕定という2人の兄がいたが、長兄の定昌は若くして亡くなっていた。また、次兄の顕定は、山内上杉家の養子となり関東管領に就任していた。房能が越後守護に就任したのには、そのような複雑な背景があった。

 房能を支えていたのが、守護代の長尾能景(よしかげ)である。しかし、房能は大名権力の強化を目論み、明応7年(1498)に守護使不入権の停止(ちょうじ)を命じた。

 守護使は荘園などに立ち入り、段銭徴収や罪人を逮捕することがあった。寺社などでは守護使の入部を拒み、守護使不入権の特権を獲得していた。守護使不入権の停止とは、その特権を認めないことである。

 ところが、能景は在地領主の側に立ったため、守護使不入権の停止に反対し、2人は鋭く対立するようになった。とはいえ、房能とすぐに戦うことはなかった。

■激変した情勢

 永正3年(1506)、能景が越中国で一向一揆と交戦中に戦死すると事態は激変した。能景の後継者である長尾為景は、房能の養子・定実を擁立して、公然と房能に反旗を翻したのである。

 永正4年(1507)、房能は定実・為景連合軍の軍勢に敗れ、顕定を頼って上野へと逃亡した。しかし、関東では、長尾景春が為景を支持し、房能は不利な立場に立たされた。

 結局、房能は上野への逃亡中に為景から攻撃され、天水越(新潟県十日町市)で自刃したのである。この一連の戦いは、「永正の乱」と呼ばれている。

■再度の戦い

 永正7年(1510)になって、顕定は越後を再び奪還すべく、上野守護代の長尾定明や上州一揆を率いて出陣した。

 しかし、顕定は越後府内(新潟県上越市)を攻略したものの、同年6月20日の上田荘長森合戦で無念にも戦死したのである。

 顕定の戦死後、関東管領は顕実が、上野国守護は憲房がそれぞれ継承した。しかし、この2人は、のちに再び対立する。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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