織田信長以上に残酷だった前田利家は、一向一揆で反抗した人を釜茹でにした
世界では今も戦争が行われており、人々が残酷な方法で殺害される例は決して珍しくない。「槍の又左」と称された前田利家は、織田信長よりも残酷で、一向一揆で反抗した人々を釜茹でにしたという。その点について、詳しく述べることにしよう。
天正元年(1573)、織田信長はかねて敵対していた越前の朝倉義景、近江の浅井長政を滅亡に追い込んだ。2人と浅井久政(長政の父)の頭部は薄濃(はくだみ)にされ、宴席に供されたという。薄濃とは、頭蓋骨に漆や金銀の箔や粉を貼り付けることである。
朝倉氏の滅亡後、越前の支配を任されたのは、朝倉氏旧臣の桂田長俊である。しかし、翌天正2年(1574)、越前で一向一揆が蜂起し、長俊は抗戦の末に討ち死にした。
一揆勢を率いていたのは、富田長繁である。ところが、のちに長繁は一揆勢と対立し、討たれてしまった。こうして越前は、一向一揆が支配したのである。
当時、信長は各地の反信長勢力と戦いを繰り広げており、越前に出陣する余裕がなかった。とりわけ、大坂本願寺と長島一向一揆、甲斐の武田勝頼は難敵だった。
一方で、越前の一向一揆は内部で分裂し、混乱が生じていた。天正3年(1575)、信長は長篠の戦いで勝利したので、いよいよ越前への出兵を決意したのである。
信長が本拠の岐阜を出発したのは、同年8月のことである。信長はたちまち越前国内を席巻すると、一揆勢を根絶やしにすべく次々と討ち取った。
一揆勢から降伏の申し出があっても、決して許すことはなかった。信長は一揆勢に勝利したが、それでは満足しなかった。逃げた一揆勢を厳しく追及し、見つけては殺害したのである。
前田利家もまた、越前の一向一揆との戦いに出陣していた。このとき利家は、一揆勢を次々と捕らえ、磔刑に処したり、釜茹での刑に処したりした。
昭和7年(1932)、小丸城(福井県越前市)から瓦が出土された。瓦は利家の残酷な所業について、後世の人々に読んでもうために書き付けられたものである。
利家の軍勢は、一揆勢を1,000人ばかり生け捕りにすると、先述のとおり磔にしたり、釜で炒たりあぶったりしたという。釜のお湯で人々を茹でたのか、それとも生きたまま釜で炒たのか、今となっては不明である。かなり残酷な刑である。
織田軍が討ち取った一揆勢は、1万を超えていたという。主戦場となった府中の町は、死骸で埋め尽くされていた。また、信長方の将兵は首を取るのが大変なので、代わりに鼻を削いで軍功の証にしたという。