三条天皇には、なぜ中宮の藤原妍子と皇后の藤原娍子がいたのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇が藤原妍子と藤原娍子をそれぞれ中宮と皇后にすることについて、藤原道長と口論する場面が描かれていた。その点について考えることにしよう。
皇后とは天皇の正妻のことであり、中宮は言い換えただけで正妻であるのは同じである。一条天皇が藤原彰子を中宮としたとき、藤原定子を皇后にしたのが最初の例である。
娍子は藤原済時の娘として、天禄3年(972)に誕生した。かつて、済時は娍子の入内を花山天皇から持ち掛けられたが、固辞したといわれている。娍子が居貞親王(のちの三条天皇)に東宮妃として入内したのは、正暦2年(991)のことである。
娍子は琴を父の済時から教えられ、その演奏は見事だったという。しかも大変な美貌の持ち主だったと伝わっている。かつて花山天皇が入内を求めたのも、うなずけるところである。
娍子はのちに三条天皇との間に四男二女をもうけ、幸福の絶頂にあったが、長徳元年(995)に父を失っていた。そのような事情もあって、娍子の立場は実に不安定だったといえる。
妍子は藤原道長の娘として、正暦5年(994)に誕生した。妍子が居貞親王に入内したのは、寛弘7年(1010)のことである。居貞親王は、妍子より18歳も年上だった。むろん、道長は今後のことを考えて、妍子を入内させたのである。
寛弘8年(1011)に三条天皇が即位すると、妍子と娍子をそれぞれ中宮と皇后にした。すでに三条天皇には、娍子との間に第一皇子の敦明親王がいた。しかし、道長への配慮もあったので、二后並立は苦肉の策だったといえよう。
しかし、妍子が産んだのは女子ばかりで、後継者たる男子を産むことがなかった。三条天皇は親政の意欲が強く、妍子が男子を産まないこともあいまって、道長との関係が徐々に冷えていった。
長和5年(1016)、三条天皇は眼病により、後一条天皇に譲位した。その際、敦明親王の立太子を希望したが、道長の意向もあり、それは実現しなかったのである。