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木村拓哉がCMで手にしている「ヘミングウェイ」は村上春樹が最高作と指摘した長編小説

堀井憲一郎コラムニスト
1938年 30代後半のヘミングウェイ(写真:Shutterstock/アフロ)

「いい男はやっぱりヘミングウェイなのよ」

マクドナルドのコマーシャルで、木村拓哉はヘミングウェイを読んでいる。

それに気づいた柴田理恵と光浦靖子にいろいろ聞かれている。

「何読んでらっしゃるの」

「今日はヘミングウェイです」

「ヘミングウェイ!」

「いい男はやっぱりヘミングウェイなのよ」

先だってのドラマ『漂着者』でも、漂着した斎藤工が演じる謎の人物は“ヘミングウェイ”と呼ばれていた。

もう百年ほど前の作家なのに、いまだにかっこよさげなアイコンとして使われている。

なかなかたいしたものである。

ヘミングウェイといえば『老人と海』とされる奇妙な傾向

若い人と話していて、ヘミングウェイと言うと、だいたい『老人と海』と答える。

若い世代にとってはヘミングウェイは『老人と海』らしい。

なんか、それは、ちょっと違うよな、と言おうとして、でもその話をしたら長くなるから、まあ、そうだねえ、とそのまま話を終えることが多い。

ヘミングウェイの短編のかっこよさ

先だって原稿を書くため、ヘミングウェイの短編にだいたい目を通したのだが、やっぱりこの作家の短編は、めたらやたらとかっこいい。

いまは新潮文庫から『ヘミングウェイ全短編』という本が全三冊で出されているので、そのタイトルを信じて、この三冊を読み切れば彼の全短編をよんだことになるのだとおもって、何度か読んでいる。

読み返すたびに刺さってくる部分が違っていて、そこがなかなか、いい。

全短編1に入っている「ファイター」という小説では、川の土手の焚き火で、ハムと卵を焼き、その脂にパンを浸して食べるシーンがあるのだが、最初読んだとき、そのうまそうな描写に痺れてしまった。

でも二度目に読んだときはそこをすっと通り過ぎるように読んでしまって、気がつかなかった。

そういう文章でもある。

すっと読める。

だから気がつくと深く刺さってくる部分がある。

でもまったく何も気づかないこともある。

それを承知で、こういう「登場人物の心理をまったく描かない」スタイルをヘミングウェイは作り上げたのだ。

なかなかすごい小説家である。

ヘミングウェイはどこがかっこいいのか

その後の20世紀の文学に与えた影響ははかりしれず、その「心理描写をしないスタイル」を世に広く知らしめたという点において、文章家としてすごくかっこいい。

ただ、では彼の長編小説がおもしろいかというと、なかなかむずかしい。

このへんが文学のおもしろいところである。

ヘミングウェイの長編といえば、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』あたりが代表的なところだろう。

『老人と海』は長編とはいえず、まあ長い短編もしくは中編というあたりになる。

『老人と海』はきれいにまとまりすぎ

ヘミングウェイを読んでいて飽きないのは、ちょっと変な言い方になるが、物語としてさほど緻密なできあがりになっていないところだ。

そこに小説としての魅力がある。

『老人と海』はかなりきちんとした構成になっていてわかりやすく、だから私からみれば、あまりヘミングウェイらしからぬ作品におもえる。

人と自然を描いて、文体も描写力も圧倒的な魅力に満ちているのだが、きれいにまとまっているぶん、若いころの作品と比べて「ヘミングウェイの躍動した精神」がちょっとストレートに感じにくい。

若いころのヘミングウェイは、どこに行くか分からない気持ちを、その気持ちのままぶつけて物語を力づくで進行しているようなところがあり、それを読んでいると「よくわからないけど元気になる」世界に入ることができて、そこがとてもいい。

『老人と海』は、言ってしまえば、まとまりすぎなのである。

読んだあとに意味もわかる。だから多くの人に読まれ、いまも語り継がれるのだろう。それはそれでいい。

でも、ヘミングウェイは『老人と海』の小説家ではない。代表作にそれを挙げられると、何かちょっと違うのではないか、と個人的には言いたくなってしまう。

『日はまた昇る』の底知れない魅力

最初の長編『日はまた昇る』が、いろんな断面を描き、わりとどうでもいい人の動きを描き続けている。

まさに「ヘミングウェイが生きていた時代の空気と息づかい」がリアルに伝わってきて、そこが痺れるように楽しい。

この小説を読むと、若いヘミングウェイに同化しているように、何だか浮き足だってくる。ある意味、うきうきする。(ただ私も、若いころに読んだときは、そんなおもいを抱いていなかったのだけど)

『日はまた昇る』のあちこちに散らばっているいろんな描写がとても魅力的で、何度も何度も読み返している。でも、小説としてあまり人に勧めたことがない。

粗筋を話そうにも、あまり一貫した筋はない。

だからこそ小説として成り立っているのだけれど、でもそういうものを読み慣れていない人に勧めても、たぶん、何も感じなさそうだからだ。

他の長編に比べてヘミングウェイといえばこの作品だろうとおもっていたが、あまりそういう評判を聞いたことがなかったので、おそらくかなり個人的に偏った趣味だとおもって、人に勧めたことはなかった。

村上春樹に言わせると最高作は『日はまた昇る』

ただ、村上春樹が自分で訳したフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』の解説で、ヘミングウェイの長編小説は経年劣化が速いと指摘したあとに「へミグウェイの長編小説の最高作は、僕に言わせれば『日はまた昇る』だが」と書いているのを読んで、ああ、さすがにたくさん小説を読んでいる人だとそうおもうよなと、とても感銘したことがある(ものすごく偉そうな方向の感想で申し訳ありません)。

この文章はそのあと、それでも『日はまた昇る』は『グレート・ギャッツビー』に比べると一段落ちると書いてあって、ああ、そうか、この二つの作品が描こうとしている世界は似てるわけかと、そこもすごく感心してしまった。

『グレート・ギャッツビー』と『日はまた昇る』

小説に何を求めるかによって全然、評価は変わってくるだろう。

私は「お祭り騒ぎの1920年代」の空気の中に入りたくて、身に迫るリアルさでその空間に放り込んでくれる作品が好きで、だから『日はまた昇る』がとても好きなのだ。

もちろん『グレート・ギャッツビー』もとてもすごく素敵でこれも大好きである。ただちょっと煌びやかすぎるな、ともおもう。

たぶん舞台がアメリカの真ん中なのと、周辺のヨーロッパなのとの違いなのだろう。(前者がギャッツビー、後者が日はまた昇る)

行動的作家として人々を魅了した「パパ・ヘミングウェイ」

ヘミングウェイは、1920年代後半に、フィッツジェラルドと入れ替わるように圧倒的な人気となり、当時から「輝かしいアメリカらしい文学者」というアイコンになっていた。

行動的で、「パパ」ヘミングウェイと呼ばれ、果断な魅力ある男性として、その姿をみんなに見せ続けた。

かなりみんなに見られることを強く意識して生きていたとおもう。

かっこいい小説家の20世紀代表と言っていい。

その流れが、2021年の木村拓哉にまで流れついているわけである。

さすがキムタクの選択

柴田理恵と光浦靖子に見られた木村拓哉は、いったいヘミングウェイの何を読んでいるのだろうと、1分バージョンの動画で確認してみた。

かなりわかりにくいが、何カ所かを停止して確認したところ、どうやら『日はまた昇る』のようである。

さすが。キムタク。

もし彼が持っているのが『老人と海』だったら(申し訳ないのだけれど)かなりがっかりなところだし、『武器よさらば』くらいだったらまあいいかなとおもったのだが、まさに『日はまた昇る』だったので、すごく嬉しい。

ヘミングウェイといえば『日はまた昇る』という人たち

ヘミングウェイといえば『老人と海』ではなく『日はまた昇る』ではないかとおもう人が、きちんといるようなのが嬉しい。

正直なところ、ヘミングウェイを読んだことない人が『日はまた昇る』から読んでしまうと、え、これがおもしろいの、と疑問を抱く人がかなりいるとおもう。

それはどうしようもない。

でも、そのうち、ほんの一割くらいの人でも(そんなものだとおもう)、あ、おもしろい、とおもう人がいれば、ちょっと楽しい。

丁寧なお薦めとしてのヘミングウェイは「短編集」だけど。

とにかく、2021年のコマーシャルで、木村拓哉が読んでいるのはヘミングウェイの『日はまた昇る』であった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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