【光る君へ】藤原定子を皇后に、藤原彰子を中宮にするという「一帝二后」とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原定子を皇后に、藤原彰子を中宮にするという「一帝二后」の場面が描かれていた。「一帝二后」とは、どのような制度なのか考えることにしよう。
そもそも一条天皇の中宮は、藤原定子(道隆の娘)である。長徳の変で伊周と隆家(定子の兄弟)の従者が花山法皇の衣の袖を射抜いたので、その責任を追及された2人hs左遷された。
その際、定子の邸宅に検非違使が捜索に入ったので、定子はあまりのショックで発作的に髪を切った。髪を切った定子は、周囲から出家したとみなされたが、一条天皇の深い愛情は決して変わらなかった。
そのような状況下の長保元年(999)、藤原彰子(道長の娘)が一条天皇に入内した。道長が中関白家(道隆の系統)を超えるには、娘を入内させる必要があったので、当然の成り行きだった。
しかし、問題となったのが、定子の存在である。定子は出家したとみなされており、それは前代未聞のことだった。公家からの不満があったのも事実なので、道長はこの問題を何とか解決しようとしたのである。
そこで、道長が思いついたのは、彰子を中宮とし、定子を皇后とするウルトラCだった。そもそも中宮と皇后は、同じことを違う言葉で表現しているだけである。1人の天皇に中宮と皇后がいることも前例がなかった。
早速、道長は藤原行成に相談した。行成は定子が出家したとみなし、神事を行っていないことを問題視した。そこで、もう1人の后を立てて新しい中宮とし、神事を行わせることを一条天皇をすでに進言していた。
行成は定子に近いと思われていたが、彰子を中宮とし、定子を皇后にする案に賛意を示していたことになる。そして、行成は道長に協力する姿勢を示したので、大いに感謝されたのである。
行成が道長に与同したのは、道長が権力者だったからだろう。今後の出世を考えると、道長の意向に反するのは憚れたのである。そして、道長の案(「一帝二后」)が実現することになった。
長保2年(1000)2月、彰子は中宮に冊立され、同時に定子は皇后になった。これが史上初とされる「一帝二后」が誕生した瞬間だったのである。