専門家が明かす!なんか不安で「ベッドに入っても眠れない時」に知っておくとすぐ眠れる言葉3選
なんか不安でベッドに入っても寝られない時とは、生きざまに無理がある時です。つまり、地に足のついた生きざまをしていない時です。
例えば、キャバ嬢における「なんか不安」というのは、短時間で高収入を得るという行為や、世間の基準をもとに自分を「映えるように作る」行為ではない、なんらか別の行為をすることによって解消されます。
さて、「なんか不安」を哲学したキルケゴールは、そのことを『不安の概念』や『死に至る病』などの著作に記しました。地に足のついた生きざまをしていない人のことが精神分析的に書かれてある本です。
地に足のついた生きざまをしていないというのは、キルケゴールに言わせると精神を知らないということです。その精神は、言語化できる何かと言語化できない何かの両方を持っていますが、後者、すなわち言語化できない何かが心に宿っていることを知らない。だから「なんか不安」なのだと――。
言語化できない何かとは、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」のような聴く者を興奮させる音楽を聴くとそれが何なのか肌感覚でわかります。クラシック音楽を好まないのでしたら、あいみょんでもユーミンでもお聴きになるといいでしょう。すべからく音楽というものは、言葉にできないなんらかの気持ちを表現しています。
精神を知っている人のうち、「わたしは本当はこう生きるべきなのだろう」とうすうす知っていて、しかしそこに向かえない。そんな自分を責める。そんな人のことを、キルケゴールは弱さの絶望と名付けました。
例えば、バリバリ仕事をするキャリアウーマンが夜、ベッドに入ると何かが不安で眠れないという場合、その人はキャリアウーマンではないなんらか別の仕事が適職だということです。
「わたしは本当はこう生きるべきだろう」という気持ちは、あなたが理詰めで作った気持ちではないはずです。それこそ気がつけばなんとなく、どこからともなく心の中に湧き起こっていた気持ちであるはずです。その気持ちをキルケゴールは永遠と名付けました。その永遠が語りかけてくるままに生きることによって、私たちは「なんか不安」という気持ちから解放されます。
「わたしは本当はこう生きるべきなんだろうな」とうすうすわかっていても、それとは別の恣意的な「なりたい自分」であろうとする人のことを、キルケゴールは反抗と名付けました。
要するに、言語化できない何かがあなたに見せている「使命」を見ないふりをして「なりたい自分」を目指す、その生きざまをキルケゴールは反抗と呼んだのです。
例えば、私も経験があるからわかりますが、文学賞に20回も落ちたらさすがに「なんか違う」と思います。つまり、自分は小説を書くためにこの世に生まれてきたのではなく、なんらか別の仕事をするために生まれてきたのではないか、といったおおいなる疑義を抱きます。
その疑義を見ないふりをして、また小説を書いては応募し落選する。落選のたびにやけ酒を飲み、「そうだ『経験』が足りないからいい小説が書けないのだ」と思って風俗店で性行為をする――こういうのって、ただの自暴自棄であり、なんの価値もないわけですが、世間ではそういうのが無頼派の作家とかと呼ばれています。
いかがでしょうか?
ベッドに入るとなんか不安で眠れないという人がまず認めるべきことは、私たちの心の中には言語化できないものが存在しているということです。
その言語化できないものは実は、「あなたはこんなふうに生きるのがふさわしいです」というインフォメーションを私たちにもたらしています。その情報が聞こえているのに、そっちの方向に行かないことによって、私たちは「なんか不安」という気持ちを抱きます。あるいは、あえてそれ以外の恣意的な「なりたい自分」を目指すから、「なんか不安」と思います。
つまり、地に足がついてる生きざまをしている人というのは、簡単に言えば、なぜか(若くして)自分の使命がわかっているのです。これは親の育て方や環境などの要素もあると思いますが、究極的には、その人の世界がなぜか(若くして)使命を知るように開かれていたということであり、奇跡に近いことです。誰がどのようにその人の世界を開いたのかは、人類の誰もが知らないのですから。
というわけで、書いてあることが難しくて速攻で寝落ちした方も、なんか不安の根本原因がわかってスッキリして眠ってしまった方も、みなさんおやすみなさい。
※参考・引用 『死に至る病』キルケゴール・S(鈴木祐丞訳)講談社(2017)