「テクノロジーを実装する」視点から考える「社会の変化を実装する」
近年の様々なテクノロジーの進展には、目に見張るものがある。それらは、これまでのテクノロジーやそれに基づく新しい製品・サービスなどによる人間生活や社会の変化を超えて、私たちの日々の生活、経済、産業そして社会の隅々までを確かに変えつつあり、今後さらに大きく変貌させていくことが起こるだろうし、またそのように予想されている。
他方、AIやブロックチェーンなどの特にここ数年注目されてきた技術は、2年前ぐらいまでの熱狂などに比べると、飽くまでも筆者の肌感覚だが、最近社会的な関心や注目がやや低下というか落ち着いてきたかのように感じる(注1)。
これは、次のようなことから生まれて状況だろう。一時はそれらのテクノロジーでできることのみが語られ、現実との対比で、その延長で起こりうる社会や生活が理想的に語られ、テクノロジーが分かる人々を中心に社会が注目し期待する状況が生まれたが、テクノロジー的にいかに可能であっても、テクノロジーが社会的に実装されるには、より多くの人々や社会全体(あるいは社会のある程度広い領域)が受け入れる状況がなければダメなのである。しかし、そのような状況が今すぐに実現するかというと、現実にはそんなことはないということから生じた事象だろう。
これは、別のいい方をすれば、当然のことであるが、テクノロジーを実際の社会に適用、近年の言葉でいえば「社会に実装」していくには、テクノロジーを受入れ、活用できるような環境が、人々のマインドにもまた社会制度や仕組みも含めて、構築されていかないといけないのである。
そのようなことを、改めて再認識させてくれる良書が最近出版された。それが、『未来を実装する…テクノロジーで社会を変革する4つの原則』(注2)である。
同書の興味深い点は、同書は、新しいテクノロジーを「社会に実装」するにはどのような視点をもち、いかなる行動・活動をすべきであるかについて、的確かつ具体的に論じていることである。
しかもそこに描かれていることは、筆者のように、これまで社会や時代の変化に対応し、社会課題を解決するために新しい仕組みや政策を実現しようとしてきた者、つまり「社会の変化を実装する」ことを試みてきた者にとっても、単にテクノロジーの問題にとどまらず、新しい考え方、新しい制度や仕組みを社会的に導入し、「実装」しようとする際にも非常に参考になることばかりなのだ。
つまり同書は、社会を変えたいと考える人や、新しい制度・法律・政策を実現したり、既存のそれらを変化させたいアドボカシー・ロビーイングに関わる方々にも大いに参考になるということだ。今後そのような分野で活躍したいと考える者、政治家、行政官、市民運動家や社会活動家、ロビースト、アドボケータ―、政策研究者などにとっては、必読の書といっても過言ではない。超お薦めである。
さて、ここで話を戻して、日本社会におけるテクノロジーの実装について考えてみよう。日本は、筆者のこれまでの経験からしても、変化がないわけではないが、あまり変化を望まない社会だ。要は保守的なのだ。
そのことは、世界中では、キャッシュレス化をはじめとするテクノロジーの実装化が急激に進展してきているが、現在の日本は、誠に残念なことに、相対的にそのような変化についていけない、別のいい方をすると「ストップモーション」的な社会になってきているという現実とも符合する。それは、日本社会が、近年まで、ある意味で世界の先端を走り、日本が豊かになり、日本人がそれに満足し、ある意味で「学ばない」、新しい変化を求めて「学ぶ必要のない」社会だったからだともいえよう。つまりある意味で、日本は「いい社会」だったのだと思う。
ところが、東西冷戦構造が終焉し世界がグローバル化する中では、各国や各地域の発展はより相対的になり、他国・他地域が発展するなか、変化しないことは、その国・地域は、相対的に後進国化する状況が生まれてきたのだ。その意味からすると、日本は、現在の世界の中で、先端の国・地域とは全くいえない状況になってきたといえるのである。
日本がこのような状況にあるのは、日本社会が「いい社会」「住みやすい社会」であることも事実だが、他にもいくつかの理由があるのではないかと考えている。
その中でも特に重要な一因の一つが、日本では、特に教育において文系と理系の峻別が大きいことにあるのではないかと、筆者は考えている。日本の教育体系が、高校以降特に大学の高等教育では、文理が大きく分かれている。これは、明治以降の歴史的な日本の人材育成の在り方に起因しているようだ(注3)
日本では、文系の人間は、社会のことは知っていたり関心があっても、理系のこと、テクノロジーやサイエンスなどについて知らなかったりわからない、理系の人間は、テクノロジーやサイエンス走っていたり関心があっても、社会については知らない、関心がないあるいはわからないことが多いのだ。
ところが先に述べたように、また上で紹介した書籍でも述べられているように、テクノロジーはどんなに優れていて、それを活用すればどんなに素晴らしい社会が創れる可能性があっても、それを受け入れる社会や人々がいないと、そのテクノロジーが社会的に決して「実装化」されないし、少なくとも実装化に非常に時間がかかるのだ(注4)
そのような観点からも、日本を、新しいテクノロジーを実装化しやすい先端的な社会にしていくためにも、日本における人材育成の仕組みを大きく変換していく必要があると考えられる。
いくつかの大学等では、AIやデーターサイエンスなどの分野を学ぶことのできる文理融合の科目の設置や学部・研究科の設置などが始まっているし、小学校におけるプログラミング教育などがはじまってきているが、文理を超えた視点から、それらの科目や部署で教育できる人材の育成も含めて、今後の大きな変革が望まれるところである。
その意味からも、文理の違いや単なるテクノロジーの問題を超えて、日本そして世界のこれからを構想し、構築できる人材育成のための、新しい教育や社会的仕組みの構築が、現在のようなコロナ禍で社会が一見アイドリングし、混迷している時期だからこそ、今の日本に必要なのではないだろうか。
(注1)筆者は、台場の東京ビッグ・サイトで本年4月初旬に開催された「第5回 AI・人工知能 EXPO【春】」にも参加したが、コロナ禍もあり、やや盛り上がりに欠けていたように感じた。
(注2)同書は、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブのプログラム「社会実装」の成果物として、東京大学産学協創推進本部FoundXディレクターの馬田隆明氏により出版されたものである。
(注3)この件については、「『文理分けは日本だけ』は本当か? 隠岐さや香・名古屋大教授に聞く」(朝日新聞EduA 中村正史 2020年10月21日)等を参照のこと。
(注4)書籍『未来を実装する』も、新しいテクノロジーの実装化には長い時間がかかることを指摘している。