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優勝候補を次々に撃破した新湊フィーバー/センバツ・旋風の記憶[1986年]

楊順行スポーツライター
リニューアル前の甲子園(写真:アフロ)

 こういうのを、旋風というのだろう。1986年センバツ。前年秋のチーム打率.291で、出場32チーム中最下位だった新湊(富山)が、次々と優勝候補を倒してベスト4まで進んだのだ。

 率いたのは、檜物政義監督。仏壇漆塗りの「塗師」として生計を立てながら、母校の指導にあたっていた。こう振り返る。

「もともと力がないチームで、しかもあの年は大雪。練習不足は目に見えています。だから、ほかの高校はみんなウチと対戦したいんですよ。抽選会で、私たちの2列前に座っていたのが享栄(愛知)。対戦が決まると、彼らは立ち上がってバンザイをしました。一方私たちはシュンとなってね……」

 なにしろ享栄といえば、翌年中日入りし、デビュー戦でノーヒット・ノーランを達成する近藤真一がエースの優勝候補なのである。ところが、だ。その享栄を1対0で破り、2回戦では、前年の関東覇者でやはり優勝候補の拓大紅陵(千葉)を中盤で逆転し、準々決勝は京都西(現京都外大西)から延長14回、ボークで決勝点を奪う。

 プロが目をつけるような素材など、一人もいない。体だって見劣りする。富山の港町の高校に、たまたま集まった野球好きの地元少年たち。そんなチームが、ビッグネームを向こうに回して一歩も引かない戦いぶりに、地元・新湊(現射水)市は熱狂した。筋金入りの野球好きが多く、人口の4分の1以上、約1万2000もの人が甲子園に駆けつけたといわれる。

打撃投手の球が、自分より速い……

 準決勝では、高村祐(元近鉄など)がエースの宇都宮南(栃木)に敗れたが、このときのベスト4はいまでも、県勢の甲子園最高成績だ。エースは、酒井盛政。後年、当時の話をじっくり聞いたことがある。新湊を卒業後、伏木海陸運送株式会社に入社して26歳までプレーした。肩を痛めてからは同社の軟式に転じ、監督を務めた時期もある。

「あの年……1回は勝ちたかったですね。ただ、ほかのチームに関する予備知識はまったくなかった。抽選で享栄と当たることになってから雑誌などを見て“いやぁ、近藤はすげえピッチャーなんだな”と思った程度なんです」

 85年の秋、新湊は富山県のベスト4だった。北信越大会の出場枠は当時、各県から2校ずつだったが、この年は地元・富山の開催だったためにベスト4でも出場できた。そこでの決勝進出が評価され、富山勢としては16年ぶりのセンバツ出場をつかんでいる。1回戦、酒井は絶好調。檜物監督には「3回まではなんとかゼロに」といわれたが、それどころか享栄の強力打線を6回までノーヒットだ。しかも打っては、2回に自ら先制三塁打。結局、この虎の子の1点を守りきり、2安打完封を成し遂げる。

 もともとカーブには自信があった。落差の大きいものと、スライダーふうに横に曲がる2種類。放生津小学校時代、「手首が柔らかいから、きっといいカーブを投げられる」といわれて遊び半分で投げはじめ、奈古中時代にはおもしろいように変化した。高校に進んでからも、落ちるカーブがきちんとコントロールできれば、打たれた記憶がない。さらに、センバツ出場が決まってから、土の感触を求めて出かけた関西遠征で、テイクバックを小さくするフォームに改造。ボールの出どころが見えにくくなったうえ、フォローの腕の振りが速くなった。

「4回、2死三塁のピンチで、近藤を見逃し三振に取ったのは気持ちよかったですねぇ。勝負球は、内角まっすぐです。カーブが多いので、みんなそれを狙ってくるんですが、たまにまっすぐを交えるから手が出なかったんだと思います。それにしても、近藤は速かった。まっすぐが見えませんもの。ウチは12三振ですか……自分の三塁打だって、一、二の三! で振っただけです。自分では会心のつもりだったんですが、外野がずいぶん前に出ていたんですね。2死一塁の場面、セオリーとしては長打警戒で前進はしないでしょう。だけどあの近藤の球なら、外野が前に守るのもわかりますよ」

 雨中で行われたこの試合だが、新湊守備陣にとっては手慣れたものだった。雪の多かったこの年、グラウンドには60センチ程度の積雪があったが、センバツ出場が有力だったからそれをかき分け、ぬかるんだ土のうえで長靴をはき、ノックを行っていたのだ。水はけのいい甲子園の土なら、多少の雨は新湊にとってさほど影響はない。堅実な守りで、酒井をもり立てた。

 2回戦は、拓大紅陵。たまたま甲子園練習を目の前で見たとき、酒井は目を丸くした。

「バッティングピッチャーは、僕より速い。それを、コーンコーンと打つんです。キャッチャーは飯田(哲也・元ヤクルトなど)で、二塁送球がすごくて、これも僕より速いくらい。そことの対戦なんて……こりゃあ、無理やなと思いますよ。実際、いざ試合が始まってみると、6回の攻撃まで0対4でしたから」

 5回まで、わずか1安打。だが、ミラクルはここからだ。中学時代は陸上部だった九番・仲谷信二の左前打を足がかりに野選、2安打2四球と攻め立て、さらに酒井の二塁打で逆転するのだ。そして準々決勝が、京都西との白熱の投手戦。延長に入ってから、得点圏に走者を進められること3度。ボクシングなら判定負けの展開なのだが、大声援を背に酒井は、ダウン寸前から何度もピンチを断ち切った。そして新湊は14回表、重盗をしかけて相手ボークを誘い、決勝点をもぎ取っている。

 快進撃の土台には、豊富な練習量があった。ことに夏休み。朝6時から夜9時まで、弁当を3つ用意してグラウンドに張りついた。いったん帰宅し、その後11時まで檜物監督の自宅でシャドウ、ティー。翌日も、朝6時から練習である。これが3日続いたら辞めよう、とネを上げかけても、3日たったら体がそれに慣れてしまっていた。酒井たちの入学時は3年生が2人、2年生が6人と上級生が少なく、チャンスはすぐに与えられたが、それでも練習の厳しさに耐えかね、部員が次々と辞めていった。そこを乗り越えた、幼なじみに近い18人。だからこそ、結束は強かった。

 センバツ後の地元では、おらがヒーロー見たさに、練習試合でさえ500人を超す観客が詰めかけたという。新湊はこの年の夏も、優勝する天理(奈良)を相手に6点差の9回、4点を返して“あわやミラクル”と思わせている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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