安倍派改め「塩谷座の15人」に関与する森元首相と約30年前の福田赳夫元首相の異同と今後
自民党派閥史に新たな1ページが。「派」ならぬ「座」の誕生です。8月31日、新体制として塩谷立元文部科学相を座長とする15人の「常任幹事会」(衆議院9人、参議院6人)が今後合議して運営していくと発表されました。
こうした動きを国民不在の「サル山のボス争い」「派利派略」と切り捨てるのはたやすい。でもこの「ボス争い」がそれはそれで興味深いのも事実です。
政治は政策論争だけでは動きません。もう1つ「権力闘争」が加わって初めて実体化するのです。というわけで100人の国会議員を抱える「塩谷座」を考察します。(文中一部敬称略)
「5人衆」とは
領袖の安倍晋三元首相死去後、取り急ぎ会長代理へ就任した塩谷立と下村博文元文部科学相が就任するも暫定で新体制の発足が望まれていました。塩谷は自らを座長(司会とかまとめ役といった感じ)として有力者数人を含めた集団指導体制を提案していたのに対して下村は空席になっている会長=領袖を選べと主張。今回の決定は塩谷案の採用で下村は排除されてしまったのです。
有力者とは森喜朗元首相が地方紙「北國新聞」の連載「総理が語る」で「会長候補」と名指しした次の5人となります。後の連載で森が使った「5人衆」が定着しつつある面々。○中の数字は当選回数。
高木毅国対委員長・元復興相⑧ 67歳
松野博一官房長官⑧ 60歳
西村康稔経済産業相⑦ 60歳
萩生田光一政調会長・元文科相、経産相⑥ 60歳
世耕弘成参議院幹事長・元経産相⑤ 60歳
「プラス9人衆」とは
座長の塩谷(当選回数10回・73歳)を含めた計6人で仕切るともみられていたものの蓋を開けたらプラス9人の15人の大所帯。加わったのが
【衆議院】
松島みどり元法相⑦ 67歳
柴山昌彦元文科相⑦ 57歳
稲田朋美元防衛相⑥ 64歳
西村明宏環境相⑥ 63歳
【参議院】
橋本聖子元五輪相⑤ 58歳
野上浩太郎元農相④ 56歳
末松信介元文科相④ 67歳
山本順三元国家公安委員長④ 68歳
岡田直樹地方創生相④ 61歳
15人の選考基準は
まず塩谷&5人衆以外の9人が選ばれた背景です。何かあるかとあれこれ推測した結果、以下の通りとなりました。
まず5人衆の衆院最少当選回数者である萩生田の6回未満は除外。参院は世耕の5回当選者に合わせると橋本聖子しかおらず衆参のバランスを欠くため4回生まで含むとしたもよう。その上で
1)座長より年長は避ける(該当者5人)
2)大臣未経験者も外す(該当者3人)
どちらもクリアしている参院の4回生が1人いるとはいえ、すべて比例当選というのが引っかかったかも。比例のみならば橋本聖子も同じながら、そこは当選5回が物を言う。
だとしても15人は多い。根拠は何だと聞き回っても誰も知らないか言わないか。冗談めかして「森さんの大好きなラグビー(の出場人数)に合わしたんじゃね?」と教えてくれた方も。まさか。いやいや。真相は藪の中。
福田系と安倍系でちょうど3対3
中核になるであろう「塩谷&5人衆」も味わい深い。
安倍派は創設者の福田赳夫元首相に連なる「福田系」と安倍元首相に極めて近い「安倍系」および「その他」に分類できます。といっても明確ではないのですが。
塩谷座長と松野、高木は福田系で世耕、萩生田、西村が安倍系。ちょうど3対3に分かれます。ちなみに下村は安倍系。入るとバランスが崩れますよね。ただ西村は経歴から「その他」かもしれません。
おそらく5人衆から新会長(領袖)がいずれ選出されそうです。先の北國新聞連載で森は「官房長官の松野さんは、今は自分のことで精いっぱい」「世耕さん」は「結局、参院にとどまるんじゃないかな」「高木さん」は「総理総裁を狙っているわけではない」と「除外」。次は「西村さんと萩生田さんだ」と述べています。
としたら福田系の西村と安倍系の萩生田による決勝戦が次のラウンドかもしれません。
先々々々代86歳は何で影響力があるのか
ところで森元首相86歳は何で影響力があるのでしょうか。1つには安倍派の領袖の移り変わりにうかがえます。森派→町村信孝派→細田博之派→安倍派と移ろい、町村・安倍の両氏は既に鬼籍。細田は現職の衆議院議長で「三権の長」。慣例により派を離脱しているのです。ゆえに安倍元首相を「先代」とすれば先々々々代が存命中なので頼ってしまうし本人もまんざらではないし。
ただ森首相時代を知る者も、知らない世代でも東京五輪組織委員会会長の彼のありさまを覚えているでしょうから「何であのような人が」と疑問を持って当然。ただ永田町では人望が厚いのですよ。何しろフットワークが軽くてあらゆるところへ顔を出し人脈が広い。数ある失言の多くもリップサービスの行き過ぎという面もありました。
91年の「4天王」とは
いずれにせよ決定的な後継者がいない「塩谷座」が今後分裂するのではないかとうわさされているのです。既に下村は憤懣やるかたないでしょうし。
酷似しているのが安倍元首相の父である晋太郎元外相が率いた時の「安倍派」後の領袖争い。息子が急逝であったのと異なって父の方は最晩年、誰がみても病状悪化が明らかで水面下で闘争は始まっていました。
1991年、晋太郎が没すると次世代の通称「4天王」による綱引きが本格スタート。その4人の名と誕生および初当選は以下の通り
加藤六月(26年生)67年初当選
塩川正十郎(21年生)67年初当選
森喜朗(37年生)69年初当選
三塚博(27年生)72年初当選
派内で安倍系の筆頭であった加藤と福田系の森が一頭地を抜いていたものの折からのリクルート事件に共に連座して謹慎状態。そこで加藤が塩川を、森が三塚を担いで「三六戦争」の火ぶたが切って落とされたのです。
福田元首相の仲裁と分裂食い止めの手際
結論としては当時当選13回の長老・長谷川峻座長(ここでも「座長」登場)の裁定で三塚派が誕生します。この顛末を塩川が「読売新聞」2008年11月.29日朝刊で語っているのが興味深いので紹介する次第です。
病み上がりであった塩川が福田赳夫(安倍晋太郎の前の領袖)に呼ばれて「病後の君のやせた姿を見るとたまらん。生きることに専念せよ。必ず君が必要とされる時が来る」と説教された。
帰り際に「三本の矢」の例えを出されて長谷川座長、三塚事務総長とともに代表世話人である塩川の3人が協力して難局を切り抜けよ。君(=塩川)は健康第一で生き残れと声をかけた、と。(3人の肩書きは派内のもの)
そこで3人で徹底的に話し合って塩川が後継指名を長谷川座長に一任すると提案。三塚が指名されるのは予想していたが、派の分裂を避けるためにはこれ以外にないと考えた、とあります。
福田元首相はこの時点で政界を引退しており、現在の森元首相と似た立場でした。この話のままであったならば、福田は仲裁して後継争いの一方の当事者を事実上諦めさせたとなります。
しかし恐れていた「派の分裂」は結局起きてしまったのです。敗軍の将となった加藤はとがめられて派から除名され、30人規模のシンパを引き連れて脱会を試みました。ここでも福田が動いて脱会を12人ほどに止めたのです。
98年の分裂劇
この騒動は続きがあります。福田の死去(95年)後の98年、森が新領袖に就きました。この時点での派内の有望政治家は
小泉純一郎(42年生)72年初当選
亀井静香(36年生)79年初当選
平沼赳夫(39年生)80年初当選
ら。森と小泉は名コンビで2005年の郵政解散の際に解散権を振りかざす小泉首相をなだめる森前首相という「プロレス」を演じたのはあまりに有名。98年、森派に納得しない亀井・平沼らは派から計11人を引き抜いて新派閥結成へと走ったのです(現在の二階派の源流)。
この頃、自民の主要5派閥のうち森派を含む実に4派閥が分裂騒動を抱えていた結果、森派は小泉→安倍晋三(1次)→福田康夫と4代続けて総理を輩出するも、09年の総選挙で民主党に惨敗して下野の憂き目をみるに至りました。
2人の元首相の違い
酷似する安倍晋三派と91年の安倍晋太郎派の「その後」。現役のまま死去した領袖(安倍親子)の跡目争いで「5人衆」やら「4天王」が台頭し、元オーナーが仲裁役を買って出ている点までソックリです。
ただ福田赳夫元首相は衝突する2者の一方を説き伏せて分裂回避を狙い、かなわなかったものの最小限にとどめるべく尽力したのに対して森元首相は焚きつけている風。しかも15人まで膨らんでしまい、収拾がつかない状況を招いています。ここが大きな違いでしょう。