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窮乏した民衆が決起し、権力者を窮地に追い込んだ土一揆3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足軽。(提供:イメージマート)

 とうとう内閣の支持率が15.5%まで下落し、最低を更新したという。こちら。実は室町時代においても、権力者に不満を抱いたことから土一揆が蜂起し、窮地に追い詰めることがあったので、紹介することにしよう。

◎正長の土一揆

 正長の土一揆が勃発したのは、正長元年(1428)のことである。最初、近江国で農民や馬借が徳政(債務の破棄)を求めて蜂起すると、たちまちその動きは京都、奈良など畿内へと広まった。京都や奈良では、貸金業を営む土倉や酒屋が襲撃され、証文類が焼かれた。

 この一揆は「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」といわれた(『大乗院日記目録』)。結局、室町幕府は徳政令を発布しなかったが、奈良では興福寺に徳政令を出させた。厳しい年貢の収奪と高利貸しの暗躍によって、民衆の怒りは収まらなかったのである。

◎嘉吉の土一揆

 嘉吉の土一揆が勃発したのは、嘉吉元年(1441)のことである。この年は、赤松満祐が将軍の足利義教を討ち混乱していた(嘉吉の乱)。同年8月、京都で土一揆が蜂起すると、徳政令を発布するよう室町幕府に要求し、丹波口などを封鎖した。

 丹波口など16ヵ所の通路を土一揆に塞がれたので、京都には物資が運ばれなくなり、京都市中は大混乱になった。そのような事情もあり、室町幕府は徳政令を発布したのである。これは幕府が発布した初の徳政令であり、一揆は収束した。なお、三河や若狭でも土一揆は蜂起した。

◎寛正の土一揆

 寛正の土一揆が勃発したのは、寛正3年(1462)のことである。その背景にあったのは、長禄3年(1459)から寛正2年(1461)まで続いた長禄・寛正の大飢饉である。西日本を中心にして、台風、水害、旱魃により作物が収穫できず、飢饉で人々は苦しんだ。

 その結果、農民だけでなく、牢人らが加わって、室町幕府に徳政令を求めて土一揆が蜂起した。一揆を主導したのは蓮田兵衛であり、酒屋や土倉を襲撃し、町に放火するなどした。しかし、室町幕府は赤松政則らを遣わし、一揆の鎮圧に成功したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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